2019年6月1日土曜日

何で江川はこんなに短いか

20180714

 考えてみれば江川は不思議な川である。10kmにも満たない川なのに、まず

 その1、水量がけっこう多い。水質もよい。

 その2、江川を遡っても山の斜面を流れ下った谷川に源流を求めることはできず、平地の泉が源流
      である。(つまり地下水位が高く水が自然と吹いてきて川の流れとなっているのだ)

 その3、上流付近(源流に近いところ)では夏に水温は冷たく(10℃)、冬暖かい(22℃) ※ただしこれは          昭和30年代までのことで護岸や埋め立てで現在ではこの現象はほとんど消滅した。

 子ンまいときから江川は故郷の慣れ親しんだ山川であったためか、格別変わった川とも思っていなかった。でもこのように並べてみるとかなり特異な川であることがわかる。そういや、夏の江川に入ると痛いほど冷たかった。また水がきれいだからサンショウウオがいたりした。水車もあり、川辺で釣りをしたこともある。子どもの頃、遊んだ山や川・・・としみじみ思い浮かべると、ワイらの年輩者はすぐ、♪~うさぎ美味し、あの山、小鮒つりし、かの川~♪、などと歌いだしたりする。

 しかし懐かしい山、川だが、山と川では時代による変化の度合いがまるっきり違うことがわかる。高越山はワイが生まれたころの80年前でもわが町から見る形はほとんど変わってはいないだろう。ところが川はどうか?江川の変わりようなどはもう無残としか言いようがない。狭く、キチャなくなり、下水道ができて最近ちょっとましになったが昭和の終わりころはドブ川のようになっていた。そして時間のスパンを100年くらいに広げると、江川はさらに大きく変化していた。

 なんと、吉野川の本流は今の江川の流路を走っていたのである。江戸時代の初期から中期にかけて幕府や大藩は河川の大土木工事を行い、その結果、川の流路が大きく変化している。よく知られているのは、わが町のずっと下流、今の第十のあたりで吉野川の本流の自然の流れは今の旧吉野川の方を流れていた。今よりずっと阿讃山脈に近いほうを流れていたのである。今の本流にあたるところは吉野川の支流である別宮川となっていた。徳島藩は工事によって堰を築き、本流を別宮川に落とし、流路を短縮することによって治水をしやすくしたのである。そちらの話を知る人は多いが、それより上流のわが町で江川が吉野川の本流であったことを知る人は少ない。

 吉野川の本流は時たま大洪水でアッチャコッチャに流れをひろげることはあっても、なんとなく本流は今のコースで流れていたんだろうと思っていたが、四国三郎の別名をとる世に名高い暴れ川である。徳島平野を南から北へと縦横無尽に気ままに本流を変えてきたのが吉野川の歴史であった。近世の早い時期には江川の流路が本流だった。

 そのように知ると、そういえば吉野川の流れを高台に上って眺めたとき、なんで、吉野川はここでカクッと曲がっているのだろうとちょっと疑問に思ったことが昔あった。川島の城山に登って、吉野川の流れを見下ろせる崖まで行くとそこが特異な岩肌と形をした「岩の鼻」である。そこから見ると東流してきた吉野川は折れたように北向きに曲がっている。今にして思うと、それは岩の鼻から知恵島~千田須賀にかけて作られた大堤防により人工的に向きかえられたのだとわかる。


 江川が吉野川の本流であったことを示す、江戸期の絵地図でもあればよいが、探したけど見つからなかった。国土地理院の作成した古い地図はあるがそれも明治を遡ることはできない。もう明治のころは今と同じコースを本流が流れていた。しかし明治の古い地図だともしかすると江川が本流だったことを示す何か手がかりが地図上にあるかもしれない。県立の文書館へ行って調べると明治30年頃の地図を見ることができた。デジカメに写真を撮らせてもらって、あとから詳細にチェックしてみた。文書館の地図も何回かコピーしたもので記号や文字も荒くてわかりにくい。少し説明を加える。


 まず、この当時明治時代の地図つくりは基本的には現代とよく似た形式で作られているが、地図記号については若干今と異なっているところがある。当時の地図記号より関連したものをあげる。注意してほしいのは土手、堤防である。これを参考に明治30年の地図を見てみよう。まだこの時代は鉄道もできていない。


 まず白い矢印を見てほしい。北と南にある頑丈な堤防(緑の矢印が示す太いけば立った線で示されている)のちょうど空いているところ、まるでここから流れの道ができているように見えないだろうか。一応流れをせき止めるための関門のように細いけばの線(黄色の矢印で示すが、流路を遮っているように見える)これも土手だろうが上記の堤防の記号に比べれば、より小さい土手であろう。そしてその小さい土手の右側に江川の源流があるのがわかるだろうか(太い一本線が蛇行して流れ始めるところ)。


 明治30年ころはまだ大規模堤防ができておらず、このように吉野川の本流が江川に流れ込んでいたことが地図上で残っているのである。つまり吉野川の本流はこのように流れ込んでいたと推定されるのである。


 しかしこの明治中期以降、大規模な堤防工事を行い川島岩の花から北東方向に向かって万里の長城を思わすような立派な巨大堤防を作り、江川とは完全に分離し、江川が吉野川の本流だったことを示す地形上の証拠が消えてしまったのである。

 現代の航空写真と明治30年の地図とを比較してみてほしい。直線的な巨大堤防が築かれ吉野川の本流を東北へ捻じ曲げているのがわかるだろう。


 巨大堤防の上に立って川島岩の鼻を望む


 このように江川は吉野川の本流だった流れが、別のところに移ったため取り残された川の跡ということができる。例えがふさわしいかどうかわからないが、あえて例えるなら、江川のでき方は、自由気ままに蛇行を繰り返すため、古い流路に残された三日月湖、または三日月沼のようなものである。今は護岸や堤防工事で人為的に流路をできるだけ直線的にしてしまったため日本でこのような川を見ることはほとんどないが、その数少ない川として釧路湿原を流れる釧路川がある。そこにこのような三日月湖ができているのである。百聞は一見に如かず見てほしい。


 そう考えると本流から切りはなされ取り残された江川の流路が短いのは頷けることである。しかし上記の釧路川の三日月湖の例で言うと、これはもう流れなくなった旧流路にたまった水にすぎないので、雨水からの若干の供給はあるだろうが水質は濁り、沼化し、やがて湿地になるだろう。ところが江川はそうなっていない。江川の水はきれいで昔はまるで泉のように夏に冷たかった。そして今でも水量は結構多く、今日も増水期のためもあるが水は滔々と流れている。

 これはこの辺りの地形や地質と関係している。まず現代の吉野川の本流の水位高に比べ(増水期と渇水期では数メートル差があるが)、江川の源流あたりの標高は若干低めである。そして吉野川が岩の鼻あたりから北東に捻じ曲げられているが昔の本流に沿って流れている地下の伏流水は旧河川の方へ伏流していること、そのため江川源流あたりでは、地下水位がずっと上がってきている。だから地上に泉として地下水が噴水しているのである。江川の源流に近い上流部でも川底からは常に新しい地下水が湧き出て、江川に新鮮な水を供給して、江川を流れ下っているのである。

 そして前のブログで紹介したように10km余りをながれ、石井町の西覚円付近で吉野川合流してそこが江川の終点となるのである。

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