2019年6月1日土曜日

この時代、氏も育ちも必要やなぁ

20180818

 以前、わが郷土の偉人、長井長義が若い時長崎遊学したときの日記『長崎日記』を読んだ。その時の彼の年齢は22(満では21)歳だった。時代はまだ幕末(慶応2年)、読みながら感想をブログに書いていたのでいつ頃のことだろうと過去の私のブログを繰ってみると平成22年の冬であった(桃山日記)。そして今、彼の別の日記『ベルリン通信』を読んでいる。老化とともに読むのが遅くなっているうえほかにも読んでいる本もあり、なかなか読めないがその分、じっくり味わって読もうと思っている。

 幕末の長崎での洋学修業で彼は自然科学(なかでも数学、医学、特に化学)を修め、また英・蘭語のほか数か国語の基礎を養った。その時、郷土徳島から長崎までの旅日記も含め学問修業の日々を綴ったのが『長崎日記』であった。
 そして今読んでいるのが『ベルリン通信』、彼は20代後半になっている。時代は大きく転換し、明治維新を迎えた。題名からわかるようにこの本は彼のドイツ留学の日記、いや日付で綴ってはいるが、外地からの手紙・報告文集といったほうが正しいだろう。彼が横浜を出発するのが明治4年2月、明治政府が誕生したとはいえ、この時、なんとまだ徳島藩が残っているのである。当然、徳島には藩主(藩知事と名前は変わっているが)も、俸禄をもらう藩士もまだ存在していた。政治制度は幕藩体制を全面的には払しょくできていないのである。日本の社会、風俗などはほとんど江戸時代と変わらない時代である。そんな中、彼は新政府より第一回海外留学生としてベルリンに派遣される。幕末、全国から長崎に遊学をした若者は多くいるが彼はその中でも抜きんでていたことがわかる。

 学問修業ということで見ると彼には大転換が二つある。藩医の家に生まれ、十代で漢学を修め、また医学についても徳島藩の中ではあるが蘭学を含めた医学をそれなりに修めていた。しかし学問の世界に大きく羽ばたいたのは藩命により長崎遊学をしたからである。そして二つ目の大転換は明治4年のドイツ留学である。この修業により彼は明治から始まった新しい学問(医学・化学)の第一人者となるのである。明治期、医学で海外留学した人で世界的偉業を成し遂げた人は結構多い、彼もそうだが他には、北里柴三郎、秦佐八郎、高峰譲吉などがあげられるが、彼は第一回留学生に選ばれたことからもわかるように先駆的でかつ偉業を挙げた人である。

 江戸時代とほとんど変わらない日本社会から海外への旅立ちを綴った『ベルリン通信』は、ベルリンに着いての学問修業の報告よりむしろ東回り(太平洋、アメリカ大陸、大西洋を横断する)でベルリンに着くまでの旅日記のほうが面白い。最初に着いたアメリカでの驚嘆するような物質・機械文明についての感想、文化・制度の違いによるカルチャーショック、などなど、またそれについてはブログに書こうと思っています。

 まず、彼の「氏」(生まれ)についてですが、盆の最中、生家跡に行ってきました。碑かなんかあるかな、と思ってましたがやはりありました。

 おまけにその生家跡の通りは「長井長義通り」と名付けられていました。モラエス通りは知ってましたがこんな通りは知りませんでした。下はその通りです。

 今は生家は古いため残っていませんがその跡地の家には長井さんの親戚の子孫が住んでいるそうです。門の横に記念の石柱(長井先生生誕の地)が立っています。

 鳥観図

 この辺りは今は中常三島町となっています。こんなところ今まで行ったことがないやろなと思い、ググルアースでしっかり下調べをしていったのですが、なんとこの場所、大学時代、講義を受けた北隅の木造校舎(今はない)から出てすぐのところで、講義が終わった後、大学北門からよく出ていましたがこの通りも通った覚えがあることを思い出しました。もう半世紀近く前ですわ。

 この常三島は藩政時代(長井長義が青年期を送った時期)の武家屋敷町である。川向こう、助任橋を渡った徳島町は城に近いため大身の藩士が多いのに比べ、橋を渡ったこちらは、中小の藩士の邸宅が多かった。その中で長井はんの家は代々の藩医で禄高200石だから、中くらいの藩士(決して下級藩士ではない)の家柄である。こんな家に生まれたのだから漢学の基礎はもちろん、医学も勉強させられた。特に幕末頃になると藩は積極的に医学を中心とした西洋の学問を奨励したため、藩医の家で生まれた彼は自然科学に小さいころから親しんだと思われる。下は藩政時代の常三島武家屋敷地図、赤丸が長井家

 弘化2年(1845年)ころ生まれた日本人としては西洋の学問をやるのにもっともふさわしい家に生まれたといえるだろう。学問的雰囲気の環境、かなりの家禄に加えて藩医としての診察の臨時収入も見込める経済力、そして藩命による長崎留学によって本格的な西洋の学問の道を目指すが、そもそもこのような家に生まれなければまず長崎留学は無理であろう。

 ここで長井はんってどんな顔をしてたのか見てみよう。左が長崎留学時(20歳そこそこ)、右がベルリン留学時(20代後半)

 男前やないかい!平成の今の世に出てきてもこりゃぁ、女性にモテモテやで。そして代々医学で仕える立派なお侍の家の生まれ、この時代、なんもかんも(見目も含め)、エエもんもって生まれているんやな。長井はんは、氏もよければ育ちもよかった。

 ドイツ留学記の『ベルリン通信』についてはまたブログで取り上げます。

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