2019年6月2日日曜日

厳島神社エピソード2・上皇たちの厳島詣

20181103

 秋の安芸旅行もこの宮島で終わりである。午後二時、そろそろ連絡船に乗る時刻ともなると二日にわたる観光でさすがにクタブれてくる。グダグダ歩いているとこんなものが目に留まった。

 見ると「後白河法皇お手植えの松」とある。明治初年までは生えていたようだが枯れてしまって今はこのように枯れ木の一部を境内においてある。独立した小殿に安置されているが見るとこれも信仰の対象になっているようだ。礼拝の札が棟に貼ってある。

 天皇陛下のお手植えの木は今も植樹祭で行われている。千年にもわたる伝統なのだろうか、もっとも今は陛下のお手植え植樹であっても信仰の対象になっているとは聞かないが、平安の昔に法皇によって植えられ明治初年まででも800年の樹齢を重ねた松は信仰の対象となっていたのだろう。

 前のブログで皇族貴族から庶民に至るまで物詣、巡礼にかこつけて風景の良いところへ旅行したと書いたがこのお手植え松の後白河法皇はずば抜けて旅好きのお方であった。もちろん表向きは信仰の旅であるが、多くの供(なかには愛妾もいる)や旅の先々にいる白拍子、遊女を呼び寄せ、ともに楽しみながらの旅であるので今日的価値から言うとあまり敬虔な旅とはいいがたい。途中、歌会を催したりして、その和歌も残っている。

 後白河法皇が特に好きであった旅先は南紀、熊野権現三所巡りであった。京を出発し数週間はかかるであろう熊野の旅ではあるがなんと34回も熊野詣に出ている。それじゃあ、厳島神社の方も多いかというとこれはたった一回、熊野より遠いが半分以上は瀬戸内海の船の旅なので津々浦々に休みながら船でいくと険しい山中を行く熊野詣より楽かもしれず、また海浜の景色見られるが、船旅はあまりお好きではなかったのか、また信心する神の好みか、ともかく一度きりである。
 その一回も清盛の篤く信仰する厳島神社だから彼との仲をよりよくするために行ったという動機も考えられる。とはいえ上記のように法皇は旅は十分楽しんでいる。

 この後白河法皇の息子の高倉上皇も厳島神社に詣でている。平家物語の「厳島御幸」を読むとその時の様子が語られている。それによるとこの時父の後白河院は清盛との軋轢のため幽閉に近い状態で、高倉上皇は父に対する清盛の心を和らげるために厳島御幸に出かけたと読み取れる。

 平家物語絵巻より、宮島の浜の高倉上皇

 厳島神社に詣でる高倉上皇

 社殿の御簾の中に上皇がいるが海中に鳥居の一部が見える。


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