2019年6月1日土曜日

長井はんが留学したころの日本の文明開化度

20180820

 長井さんが第一回留学生に選ばれた。学問で合理的精神を身に着けた長井はんはともかく、郷里の長井はんの親兄弟親戚なんどは、海外へ行ったまま生き別れになるかもわからぬと思ったに違いない。地球の裏側へ行くと聞いてもピンとこず、ただ果てもないような大洋を船で何か月もかけて渡るとしか当時の人々はとらえられなかった。幕末、この阿波でも千石船などの乗組員が嵐などによって大洋へ吹き流され、行方不明になった事故が多かった。庶民にとって大洋は大嵐そして遭難の恐怖の異世界であった。

 そんな郷里阿波の両親や兄弟親戚に別れの挨拶もしようと明治3年11月、彼は東京から地元徳島に帰る。『ベルリン通信』は別れの挨拶に帰った郷里徳島から出発の準備のため上京するところから始まる。

 明治三年の徳島。これはまだ完全な江戸時代の徳島藩そのものである。なにせ「藩」がまだ残っているのである。西洋風のもの、言葉を代えれば文明開化を示すようなものは何一つない。士農工商みなちょんまげ、武士は刀を差し、百姓町人も江戸時代と変わらぬ服装をしている。ただその中にあって長井はんは長崎留学当時から長髪か断髪だからかなりハイカラで目立ったに違いない(長崎留学から帰るときこの髪型で役人に捕らえられ拘束されたこともある)、夜が来ると行灯、せいぜいロウソク、徳島のどこを見ても文明開化の文物などはなかった。

 『この時代、阿波のド田舎にすんどる人が何か文明開化の文物に浴せるものはなかったんかいな?』

 長井はんは東京家の帰路、家から撫養までは旧吉野川を利用した水路を小舟で撫養まで行き、そこから兵庫まで船便である。この船は江戸時代の金毘羅参りに使われたような和船であり、兵庫に直通はせず淡路で一泊している。ただし、兵庫から東京行きは「火船」・大阪丸とあり、ここでようやく文明開化の乗り物蒸気船が出てくる。この蒸気船、内陸に住んでいる徳島の庶民は別として、海岸や徳島の大河である吉野川の川岸近くに住んでいる庶民が西洋の物質機械文明を目の当たりに見る機会の最も多かったのはこの蒸気船である。幕末頃から見かけるようになったモクモクと黒い煙を吐き、風向きにかかわらず自由自在に動ける蒸気船は新しい文明の驚嘆すべきものであった。

 内陸に住んでいてもこんなおもっしょい乗り物が海に浮かんでいたら庶民は見物に訪れたかもしれない。ペルリが嘉永6年に浦賀に来た時、江戸及び近在の庶民は大挙して見物に訪れたというから、徳島の庶民も半数以上はこの文明開化の舟、蒸気船を見たであろう。

 私のヒイヒイ爺さんは吉野川中流の粟島に住んでいたが、幕末から維新にかけて蒸気船の一隻や二隻は見たに違いない。もしかしたら徳島城下に行ったついでに津田や沖の洲沖まで出かけわざわざ見たかもしれない。(ワイの想像・・・・・)

 文久(1863年ころ)、ワイのヒイヒイ曾ちゃん(まだ若い)と嫁はんの話。

 「小松島沖にパ~クスたらゆうエゲレスの公使がお殿さんを訪問するっちゅうて蒸気船にのってきとるらしいわ、煙はいて風がのうても自由に動き回れるデカい船や、みんな大騒ぎしてあっちこっちから見にいっきょるらしで、ワイもモノ参りか用事にかこつけて見に行くわ」

 「ほな、ウッチャもつれてって」

 ・・・・・って庶民はこんな会話をかわしながら大挙して蒸気船を見におしかけたにちがいない。(浦賀のペルリの時もそうじゃった)、庶民が文明開化を形あるものとして見たのは蒸気船が初めてであった。時代は文久から元治、そして慶応、幕府は滅亡し、明治初年にと、徳島の海岸で蒸気船を見る機会はグンと増えた。中小の蒸気船が吉野川を遡ることもあった。

 「みんな~~~、蒸気が来たでぇ~」

 といえばこれは蒸気船の事、「蒸気」だけで蒸気船を意味した。ずっと後に鉄道機関車を目にした庶民は、これに陸を走る蒸気という意味で「陸蒸気」といったのは知る人ぞ知る。

 さてその長井はんは火船(蒸気船)大阪丸にのって東京へ行くが、東京は新政府の首都、なんぼうなんでも徳島よりゃぁ文明開化度は高かったに違いない。と思いきや。なんや!まったく江戸時代とかわらんやないかい。武士は刀を差し、みんな丁髷、服も江戸と同じ、建物風景もまた同じ、新政府の役所でさえ、江戸城や各大名屋敷を使っていた。ただ新政府の官庁にされた大名屋敷あたりでは明治政府の役人の断髪で洋装のがチラホラ見られた程度。でも庶民が見たら「こんな筒袖股引の妙な衣装着て、散切り頭にするのが文明開化かいな?」なんや祭りの時に見る、変わった格好で人々の注目をひく唐人踊りの衣装や猿回しの猿の衣装と変わらんやないかい、アホくさ、横向いて笑うてこまそ、くらいにしか思わなかった。

 ここ東京でもやはり偉大な文明開化のモノは蒸気船がダントツだったが、なんといっても首都、なんか他に庶民が文明開化とことさら思わなくても「ああ~、新し時代やな、便利なエエもんができた、やっぱ、江戸とはちゃぁうわ」というようなものがないかいな。そやそや、よう日本史の教科書に載ってたな、明治維新とドォ~ンとドでかいタイトルの下に銀座のレンガ街があって、洋風の町並みで、いかにも新しい時代、明治が始まったと印象付けられたな、銀座に行けば文明開化が体験できるんやないか、と明治3年の11月銀座に行ってみると

 「なんや江戸時代の町並みと変わらない!」

 まだ銀座レンガ街はできていない。翌年銀座に大火があって焼亡したあと、政府が音頭を取りようやくでき始めるのであるからこの時点ではない。

 でもさすが東京、この明治のごくごく初期でも庶民が毎日目にする文明開化を象徴する、そして利用できるものがありました。それは・・・・・

 『人力車』

 数年前に登場したかと思うと瞬く間に広がり、明治3~4年頃には一万台に達する勢い、瞬く間に駕籠を駆逐してしまいました。まだこの時期、徳島には広がっていなかったが東京ではこれが文明開化の最先端のモノでした。長井はんも東京から横浜に行くのに使っただろうと思われます。なんやショボいなァ~、と思われるかもしれませんが、この時代の庶民にしたらゴッツゥ新しぃて、モノスゴォ~便利な驚嘆すべきものだったのです。21世紀の文明度から計ったらあきまへんよ。付け加えると庶民に石油ランプが普及するのはまだまだ先。

 長井はんが東回りでドイツに出発したころの文明開化度はこんなものだったのです。

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