隣町石井を健康と気晴らしのためよく歩くが大体コースは決まっている。駅が起点で何コースかある。一昨日は駅から石井ドム~ショピングモルそしてマックで100円コヒを飲んでちょっと一服、それから図書館まで歩くコースをとった。その途中、ほとんど廃れた二つの石塔に気づいた。どちらも阿波の青石で作られており、卒塔婆形をしている(長細く上部先端が三角形をしている)。しかし風化が進みかなり形は崩れてきている。また上部には種子(しゅうじ)・梵字や神聖さを表す何らかの線刻があっただろうが今は完全に見えなくなっている。これを立てた当時の人、一体どんな思いでこれを立てたのだろうか、その一端でも知りたいと思い。調べてみた。
図書館横を通っている石井の旧道が国道192号線とまじわるところにおっぞうさんのお堂がある。一坪あるかないかのお堂であるがまだ木が新しく、堂の中もこじゃんとしており、お供えも整っている。今でも人々の(高齢者だろうが)信仰を集めているのがわかる。その横にあった青石の石塔がこれである。前に無造作に置かれたプラスチクの駕籠にみかんが数個お供えされているから、手を合わせて礼拝する人もいるのだろう。
表面の文字はほとんど読める。年号は明治十年とあるからそう古いものではない。何かの供養塔か、読んでみると『・・・万人の為、供養』とあるから供養塔だ。そしてその主体はと読むと、○○大権現とあって二つの神さんの名がある。右は『妙躰(体)』、左は『女躰』とある。二つの神さんの名(権現はん)を左右に並べて一つにお祀りするのは珍しくない。前にこのブログでも紹介したが同じ町内の新宮・本宮両大権現のお宮さんもそうだった。しかしこのお神さんの名前、全然聞いたことがないから知らない。でも一度見たら絶対忘れないインパクトがある。女体、妙体って・・・・・どうなのよ?ワイ今ジジイやから、股間の肉体的変化はないが、健康な男子中学生や高校生だったらどないやねん?思春期でホルモン出まくり、自慰も覚え、特に眠れぬ夜など日々性的妄想に明け暮れる若いオスである。ちょっとした性的なきっかけで性的妄想はブワッと膨らむ。そんな性欲はちきれの若い衆に「女体」は性的妄想の十分なきっかけになるんじゃないかな、女体・・・うぅぅぅ~、シンボたまらん!そしてもう一方の神さんは妙体やと、「妙」とは微妙な味わい、秘事のえも言われぬ楽しみ、うぅぅぅ女体の妙味、そして女体に対する妙技(なんのかおわかりでしょ)・・・鼻血ブゥ~、股間緊張しまくりや。
って書っきょるうちにジジイのワイが興奮してきたわ。でも考えりゃぁ、今の中高生がそんな女体という文字でそこまで興奮するか?ありえんわ、そりゃぁワイが高校生の半世紀も前の話や。情報も少なく、手ンごろ易く手に入らない時代はそうであった。本に「・・女体の神秘」なんどと書かれていたらそれを見ただけで発情するのは明治からワイらの若いころの半世紀前で終わった話だ。今は大量の情報が飛び交い容易にアクセスもできる時代である。高校生がみんなスマホを持つ時代である。それこそ女体の神秘の文字どころか、スマホの液晶画面をチョチョイのチョイとももぐれば、女体の秘所の写真までがドバっと現れるのである。文字くらいで今の若い衆は興奮しないだろう。
女体の文字にいささか興奮したが、女体という神さんにエロチックな印象を持つのは不思議ではない。路傍の石塔にエロチックな神さんを発見するのはごく普通である。道祖神は一般には道の安全や境界を守る神として知られているが「性神」としての面を持っている。下は道祖神の石塔類である。右の石仏がよく見るものであるが夫婦が抱擁せんばかりに仲よく寄り添っている。このことから夫婦和合、もっというとセックス神として崇められる。左はもう説明の必要がないだろう「性神」そのものである。現代人は卑猥なもんが神さんになるというのは受け入れられない人が多くなっている。しかし大昔の庶民は性を夫婦和合、子孫繁栄する基と陽気にとらえ恥ずかしがることもなくあからさまに祈ったのである。しかし大昔でも支配階級のインテリ(漢籍や儒教の教養を持つ)はこのような神を嫌った。有名な話であるが一条天皇の頃(紫式部はんの時代でっせ)、藤原実方が陸奥の国に赴任時馬で任地に向かっていたところこの道祖神が路傍にあった、お付のものは下馬して拝礼を、と頼んだが、実方はん、日ごろからこんな神は猥雑と軽蔑していたのだろう。「これ、下品(げほん)の神にゃ」(これはゲサクで取るに足らない神だ(拝礼など話にならん!)と通りすぎようとしたが神罰に当たりたちまち落馬して亡くなったと言い伝えられている。中世近世の庶民にとって性神は下品の神ではなく大いに拝礼して崇めご利益を期待できる立派な神なのである。謗るインテリには罰(バチ)を与えることもできる大神なのである。
下は路傍の道祖神の石塔
さてこの『女体大権現』そしてそれと並ぶ(これも夫婦像が並ぶ道祖神・性神を思い起こす)『妙体大権現』は性神なのか。帰って調べてみた。
聞いたことのない神様なので「女体」という名が入った言葉の海から、「神」、あるいは「権現」とセットにしてググってみた。すると意外や意外、県内のそれもウチんくに近い山にその名の神社があった。我が市内の山川町の北に吉野川を挟んで阿波町がある。阿波町は阿讃山脈の扇状地に開けた町であるが、阿讃山脈がちょっと切れたようになって谷になっているところがある。小谷ではなく比較的大きな谷で遡ると讃岐に抜ける街道が谷筋に走っている。この南北に長い谷筋の地域は大影というが、その谷筋の西側のそびえる山がある。なんとその名は両権現の一つと同じ名をもつ「妙体山」である。標高 785m四国山地に比べると低い山が多い阿讃山脈の中では高い山である。その山頂付近にある神社が「女体神社」である。この山、今までその名を知らなかったが、実は幾度となく山川町にある「高越山」に登って頂上から北の阿讃山脈を見ていたのである。その高越山から見る阿讃のパノラマの中でこの山は高い山なので今まで目にしていたはずだ。名前はもちろんその時は知らない。ググルアースの鳥観図で高越山に視点を置いて眺めると、確かに何度も眺めた眺望である。このピョコっと高い山が妙体山(印がついているのが妙体山)でそこに女体神社があったのだ。
女体神社の場所はわかった。ホンマにこんな近くに女体、妙体の神さんがおったんや!さっそく図書館で徳島の神社を網羅している神社誌をめくってみると女体神社は
主祭神 木花咲邪姫(このはなさくやひめ)
由緒 宝永三年(1706年)の創立と伝えられ、安産の神として信仰を集めている
とある。
妙体山の山頂付近に女体神社があるのならその山と同じ名の妙体神社も同じ山中にあるはずだと神社誌を探す。しかしない。手ンごろ易く登りやすい山ならさっそく実際に登って調べるのだがマップビューでみると標高は高越山より低いがそれより登りにくい山である。山道も整備されてない上に葎や篠が生い茂りちょっと一登りというわけにはいかない。マップビューで登山道を見るとこんな感じ。
マップビューを見たついでに女体神社のビューを見ると・・・
おや?神社がならんで二つあるぞ。もしかしてと、推察し、左が女体神社で、右は妙体のはずでは❓ しかし神社誌には「明多意神社」とある。でも読みでは「みょうたい」、別名「妙体」とも表記とある。なるほど並べて両所権現と石塔に刻印していた通り、ご本尊の神社も仲良く並んでいる。うれしいことにググルビューにはこの「明多意神社」の由緒書きもアップされていた。この「明多意神社」(妙体神社)の御祭神も木花咲邪姫(このはなさくやひめ)で神社誌にはコノハナサクヤ姫はんのお父っつあんの大山祇神のほか三神も祀られている。由緒書きによればこちらの神社も安産祈願の神であるという。
同じ祭神ならなんで神社を二つにするのか、また名前も女体、妙体と違っているのか、疑問はわいてきたが、考えると熊野の神さんもよく似ている。本宮新宮両所を一つにまとめてはいるが(ほかにも熊野の神の御眷属として十二の神がいる。それを二つ三つ一緒にまとめて一つの社にしたりしている)別々の神さんである。本殿が一つであろうがすぐ横に並んで二つであろうが日本の多神教世界の中では別に厳然たる区別はいらないのであろう。太古には古事記の神話体系には入らない土着の神がいて、地元の人々が崇めていたのを時代が下り、神の性格も徐々に古事記の神話体系に組み入れられるように変化し、それに伴って神の性質も変化したのかもしれない。また神社の移転は大昔からよくあることでその過程で二つの神社が隣り合ったことも考えられる。
女体と聞いてエロチックな想像をしたが、主神が木花咲邪姫(このはなさくやひめ)、そして安産の神ということを知るとエロチックな雰囲気は感じられなくなる。木花咲邪姫(このはなさくやひめ)は古事記の中では最も美しい女神であり、天のウズメのような性にまつわる想像はしにくい。また安産の神であると知ると、女体は「女体安穏」の祈願の女体であり、そう考えるとますますいやらしい妄想からは遠ざかる。
この供養塔が作られたのは明治十年である。まだ江戸時代の風習が色濃く残っていた時代である。また近代医学もまだ普及せず、出産によって母子ともに命を落とすケースが多々あった時代である。これから出産する人の祈願のため、また出産で命を落とした人の供養のため、霊験あらたかといわれる妙体山の「妙体・女体両大権現」の石塔を建てたのではないだろうか。
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