2019年6月3日月曜日

石井にある目立たない石塔その2 光明真言塔

20181225

 駅から歩いて石井ドムに行くときにできるだけ車の通らない田舎道を選んでいるが、その途中の四辻に光明真言塔はある。写真を見ておわかりのようにお地蔵さんの隣にある、ほかにも古い石塔類がかたまってある。田舎道といっても舗装してある道なので江戸時代の道そのまま残っているわけではない。区画整理し、新たに道が直線的に付け替えられ舗装されたときに古い道の路傍にあった地蔵や石塔類とともにこの光明真言塔もここに移転されこのようにまとめられたのであろう。とはいっても遠くから持ってくるはずはなく、近くにあった石塔類を集めものである。このような光明真言塔はあちらこちらにあり、だいたいは江戸中期以降に作られたものである。
 それではこの光明真言塔を見てみよう。
 野ざらしではあるが風化はそう進んでいない、コケ類がところどころ覆っているが線刻の文字はだいたい読める。真っ先に時代を確認する。年号は天明6年とある。この塔が『光明真言塔』であるのは上部の種子(しゅうじ)の下に、読み下しで読むと、「誦し奉る光明真言、百万遍」とあることからわかる。ここで光明真言を誦する、ということはどういうことであるのか調べてみた。誦する、すなわち読誦するというのは「経」を読むときにいう。この光明真言も広い意味では経の一種のようだが、経は漢文を音読しているものである。しかしこの光明真言はインドの古い言葉「梵語」をそのままの音で唱えるため、聞くと経のような感じはせず、呪文のように聞こえる。以下のような音の羅列になる。

 「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」

 声に出して読んでみてください。なんか聞き覚えありませんか?この呪文のような言葉は平安時代以降、護摩壇での加持祈祷などのさい唱えられたりしています。だから時代劇などで調伏だの御祈祷だのシーンでボンさんが護摩壇に火を盛大に焚いて、このような呪文のような言葉を繰り返し繰り返し唱えるのです。時代劇などでは話を面白くするため相手を調伏(相手の力を圧伏する、ときとして呪い殺すときもある)また反対にその呪いを跳ね返すときに行ったりしています。そんなおどろおどろしい時代劇のシーンが我々の目や耳に焼き付いているのでしょうね。しかし、本来のこの光明真言の読誦はそんな呪いだの調伏のために行うのではありません。次のような功徳・利益のために行われるものなのです。能書きを箇条書きにすると

 〇過去の一切十悪五逆四重諸罪や、一切の罪障を除滅する。
 〇十悪五逆四重諸罪によって、地獄・餓鬼・修羅に生まれ変わった死者に対し、光明を及ぼして諸罪を除き、西方極楽国土に往かせる。
 〇先世の業の報いによる病人に対し、宿業と病障を除滅する。

 大変結構な万能薬のような効能ですね。読誦することにより、それがなされるわけだが、やはり繰り返し繰り返し誦するのが効果的と思われていたのだろう。とてつもない数の読誦を重ねたのがこの石塔からわかる。その数、百万遍。上の光明真言の一句を誦するのに5秒かかるとして百万回に達するのはどれくらいの時間が必要だろうか。数えるのも大変だ、どうやって数えたのだろう。でも百万遍の読誦が終わったからこの光明真言塔を建てたのである。百万遍は大変な数だが、一人が唱えるのではなく、多くの同志が唱えれば達成も早くなる。やはりこの石塔の文字から、その多くの同志が「講」を組んで、百万回の読誦したことがわかる。中央の最も大きな文字列の最後が「・・・講中」となっているのがそれを示している。

 この天明六年という年号に注意してほしい。その元号の上には人々の願いが刻まれている。「天下泰平、国土安全」とある。天明は江戸の三大飢饉といわれる天明の飢饉が発生した期間である。特に天明3年には浅間山が大噴火し、その火山灰が地球全体を覆い、地球規模の日照不足をもたらした。天明3年~4年にかけて東北は大冷害となった。人肉までも食べたといわれるその惨状は、この天明6年頃にはこの阿波にも届いていたに違いない。またわが阿波も気候不順で東北ほどではないが農作物は不作であった。当然、飢饉の年には一揆や打ちこわしも頻発し、老中の田沼意次がそれによって失脚したのは有名な話である。そのような時代を考えると、この「天下泰平、国土安全」には人々の切実な願いが込められていたことがわかる。

 さらに石塔の線刻文字を見てみよう。講中の具体名を見るため、願主の文字の下、そして講中の文字の上部を判読する、ちょっと読みにくいが、固有の講中の名はなく、「女」、の文字がわかる。ということは、「願主・女講中」か。これで女性だけの講中ということが推測される。講中の構成要件は厳しい場合もあるし、緩い場合もある。この場合は女性のみで老若は問わず、場所や日時を決めて女性が集まり、光明真言を唱えその功徳に与かる、というような講の構成ではなかったのだろうか。でも遍く万人に功徳をもたらす光明真言になぜ女性だけの講中なのか、先日の女体大権現さんのような場合だと安産祈願や女体安穏の願いなので女講中もあるだろうが、光明真言の場合、女性のみの講中というのは何か意味があるのだろうか?

 そのことと関係あるかもしれないちょっと見落としそうな線刻文字を注意してみてほしい。元号の天明六年の下に干支が刻まれている、その干支は『丙午』(ひのえうま)。この天明六年は60年に一回めぐってくる丙午の年であった。当時この丙午が意味する特別の意味をご存じだろうか。今なら一笑されるかもしれない迷信だがこの丙午の年に女児が誕生することは忌まれていたのである。次のように見られていた。
 
「丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮める」という迷信があった。これは、江戸時代の初期の「丙午の年には火災が多い」という迷信が、八百屋お七が丙午の生まれだとされたことから、女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされる。」


 この迷信、江戸時代が終わっても根強く消えず昭和の時代まで残っていた。昭和41年は天明6年から三巡目の(60×3)の年であったが、やはり丙午の年の生まれの女児を持つことを忌避したのである。出生数のグラフを見てほしい(赤線)1966年が異様に低くなっている。丙午の女児は持ちたくないという迷信がまだ生きていた証拠である。ましてやそれより180年も昔の江戸時代である。その迷信はもっと深く広く信じられていたである。

 それを考えるとこの年に女性のみの講中が作られ光明真言百万遍が行われたのは丙午の年と無関係であったとは思われない。じゃあ、具体的に丙午の年の女性講中の光明真言百万遍はなにか特別な祈念を持っていたのか。それはこの石塔からはわからない。いくつか推測すると、やがて生まれる子供が男子であるように、いわゆる祈祷によって「変成男子の法」(へんじょうなんしのほう)を求めたのか、それとも生まれた女児がそのような災厄に遭遇しないためか、あるいはこの丙午が女性一般に災厄をもたらすものと考え、女性の業の滅罪を祈念したのだろうか。

 女性講中、光明真言百万遍、丙午、どんな関係があったのだろうか?

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