まず石井廃寺の位置を確認してみよう。百聞は一見に如かずでその廃寺跡の鳥観図を見てみる。二つのそう高くない山に囲まれて北へ(写真では右下方)向かって広がった扇状地に位置している。少し上手には堰堤を築いて作った溜池があるがこれは最近のもので古代には上流は狭まった谷であり、廃寺のあたりで広がる扇状地であった。もちろん谷筋から流れてきた小川が廃寺あたりを流れていた。現在すぐ南には(上方)童学寺もある。
この辺り石井町の中では田園地帯で人口も希薄である。現在石井町の繁華な場所、人口稠密地帯は北の飯尾川や吉野川に近いあたりとなっている。しかし古代は違った。北の低地地帯でなくこの辺りの山麓や扇状地などの微高地が農業を行い、居住する地区であった。土木技術の発達していない古代においては飯尾川や吉野川はたびたび氾濫をおこし、現在は田畑が広がる沖積平野は当時は沼沢が広がる水はけの悪い農業・居住には不向きな場所であった。だから石井町の古代遺跡や遺物は高地である南の山麓にある。
石井廃寺の創建の年代であるが何年とわかっているわけではない。発掘遺物の調査の結果、おそらく8世紀前半の奈良時代前期とみられている。先の郡里廃寺は白鳳時代(710年以前)なので石井廃寺のほうが世代にして2世代くらい新しい(40~50年)。このような廃寺の場合、年代推定の手掛かりになるのは発掘遺物特に瓦、そして礎石の配置などからわかる寺院の伽藍形式などである。木簡などが見つかってそれに何か記されていれば重要な手掛かりとなるが石井廃寺の場合そのような木簡類はない。
下は石井廃寺発掘から見つかり、推定の手掛かりの一つとなった瓦
廃寺跡を見学する、上図の鳥観図で言うと右下方からの小道を童学寺の方へ向かって行くと廃寺跡の説明板が見えてくる。奥の山すそには童学寺の山門が見えている。
説明板を見る。後方の廃寺の敷地では(金堂と塔の敷地のみで広かった寺の敷地は現在大部分が農地である)礎石跡が見られる。先の郡里廃寺では塔のごく一部の礎石しか残っていなかったが、この石井廃寺ではうれしいことに金堂、塔の礎石がほぼ完全に残っている。実際礎石を見てみるとこの説明板のように整然と並んでいるのがわかる。
塔跡の礎石、中心の礎石は「心礎」といわれ円形枘穴(ほぞあな)がある。心礎の写真も重ねておく。
塔の礎石の後方に金堂跡の礎石が並んでいる。
この廃寺を建てた人物であるがもう一度最初の説明板写真を見てほしい。豪族の名前があがっている。もちろん断定ではないが、その関連を指摘している。その名は「粟凡直弟」(あわのおおしのあたえ〇〇?)と呼んでいる。郡里廃寺では名前どころか氏族さえわかっていないのにどうして石井ではそのように具体的な名前まで推定できるのか。それはこの廃寺のすぐ東のやはり山裾に当時(養老七年とあるから西暦722年)の豪族の墓碑がそこにある神社の御神体として祀られているからである。
その墓碑を見てみよう。瓦と同じ焼成したものでできていて表面に墓誌が刻んである。神社の御神体なので手ンごろ易く見られないが県立博物館にレプリカがある。
西暦722年といえば奈良時代の初め、まさに石井廃寺が作られた時期と一致する。この人物が石井廃寺の建立にかかわっていると推定されるのは当然であろう。
その神社は中王子神社といい、以前、その神社にある墓碑についてブログを作っているのでこちらもご覧ください。
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