歳ぃいくと美しかった(?)顔はグチャグチャになってアッチャコッチャの肉が無様に垂れ下がりシミも疣もふえてキチャなくなるのは仕方がない。肉体はそうであるのは悲しいが、しかし心や精神などの内面の年相応の変化は悪くないと思っていた。精神は衰えしぼみ、気力もだんだん弱くなり、枯れていくのはそう悪いことではないと・・・それを表すのに好きな言葉がある『枯淡』である。若いころは枯淡を「枯れていく」~「何事も淡白になる」というので「枯」「淡」というくらいに解釈していた。そんなジジイになるんちゃぁうかな、と。
しかし自分が歳いってわかったことは、そんな枯淡なジイチャンにはなっていないということである。自分ばかりか周りを見てもいない。お、あのジイチャン、なんか飄々(ひょうひょう)としとるわ、ありゃ枯淡の風格ちゃぁうんかなと思っても、よく観察するとボケのきたじいちゃんであったりする。エエなぁと思うような枯れ寂びたジイチャンにはワイのまわりではお目にかからない。
そんなジイチャンがもしいたらある種悟った人とでもいうのだろうか。悟った人?これも枯淡と同じようにどう受けとっていいかむつかしい。迷いのない人、苦悩の種を何らかの精神作用で消滅あるいはまったく圧殺できる人、そんな人がいたら悟りの境地に限りなく近いんじゃないだろうか、そうなりゃぁ、人の業(ごう)として持っている「四苦八苦」もなくなるわけやから、本人の心は平安そのもの、生きて涅槃の境地に達したか、とも思われる。
でももしそんなじいちゃんがいるとしてそんな人はすぐ木食上人にでもなり、深山に一人入り、人との交際を一切たって完全な隠者として暮らすなら、悟りを啓いた一人のジイちゃんとして認めてもいいが、なかなかそんな状態でジジイ一人が生き延びるのはむつかしい。まあ生き延びなくったって、洞穴なんかに入り鈴を片手に振りながらそのまま即身成仏(実質は餓死)すればそれはそれでいいんだけれども現代にはまずいない。
じゃぁ、迷いのない、かつ苦悩の種も何らかの精神作用で消滅圧殺できるようなジイチャンが、一人で暮らさず社会生活したらどうなるか。社会生活するんだから人とは必ず付き合う。人と付き合えば何らかの軋轢も生じるだろう。しかし、この迷いも苦悩もないジイチャンは心をダイヤモンドの鎧で固めたような最強のジイチャンになるのは疑いない。なにせ迷いも苦悩もないんだから自分の心は全く傷つかない。となるとこりゃぁ、厄介なジジイになること間違いなし。想像もしてみてつかハレ、人から言われることは馬耳東風、カエルの面にションベンと受け流し、何があっても考えは曲げない。自分の言いたいことはズケズケ言う。うわぁ~、なんぼぉ、迷いがない、苦悩の種を摘めるっちゅうてもこりゃアカン。典型的な嫌われもののジジイや。
迷いがない、苦悩を解脱したっちゅうてもこんなのはそもそも「悟り」とは言わんだろう。たぶんお釈迦はんがゆうてはったと思うが、「悟り」を啓いて自分が救われるだけではだめで人もすくわにゃあかんと。そうなるとその「悟り」は遍(あまねく)く万人に広げられるものでなければならない。さっきいったダイヤモンドの鎧を着た唯我独尊のようなジイチャンの境地では自分はよくても人には顰蹙、迷惑をかけるもので遍く万人に広げられるものではない。迷い、苦悩がないのはいいとしてそんなジイチャンが人には思いやりをもって優しくしてくれればいいが悟りは、啓(ひらき)きなおり、にも通じ、これでいいのだ、などと言ってしまう。本人は迷いなどないっち言いながらお釈迦はんから見たらやはり、迷いのある救わなければジジイになるのだろう。自己完結の悟りはもしかしたらお釈迦はんの悟りとは反対のどうしようもない閉じられた世界に陥ってしまうかもしれない。結局、仏はんから見たらみんな凡夫や匹夫やなぁ。こんな衆生に対し自己の内部に目を向けるのも大事やが外部にたいしできることで積極的に働かなあかんつうた仏はんは「慈悲の心」を説き、クリストはんは「万人への愛」を説いた。
自分を高みに上げるため自分が努力するのはわかるが、仏はんやクリストはんは、自分のためでなく人のためにその努力をせよ、という。これはなかなかできないことである。心底からそんなことができるのか?自分をふりかえると、あぁワイはできひんわ。でもフリでもいい、内心嫌とおもってもいい、そういう行為を重ねることが大事で、形からやがて心(慈悲心、博愛心)が生まれてくるだろう、という。なるほどなぁ、と思う。ジイちゃんになって、今まで受けた恩返しせにゃ、といってボランティアに没入するジイサンもいるが仏の道やクリストはんの道に通じることをやっとるなと、ちょっと尊敬する。
最初に返って「枯淡のジジイ」になるにはどうしたらいい?
示唆に富む仏画をみた『二河白道図』である。百聞は一見に如かず、見てみよう。
絵では上段に阿弥陀仏が描かれ、中段から下には真っ直ぐの細く白い線が引かれている。 白い線の右側には水の河が逆巻き、左側には火の河が燃え盛っている様子が描かれている。 下段にはこちらの岸に立つ人物とそれを追いかける盗賊、獣の群れが描かれている。下段の岸は現世、上段の岸は浄土である。右の逆巻く水の川は『執着』の川(欲に流されるということから水である)、左の燃え立つ火の川は『瞋恚』(怒り)の川である(瞋恚の炎というから)。
そして東岸からは釈迦の「逝け」という声がし、西岸からは阿弥陀仏の「来たれ」という声がする。 この喚び声に応じて人物は白い道をとおり西岸に辿りつき、悟りの世界である極楽へ往生を果たすというもの。
『執着』(欲)、『瞋恚』(怒り)を越えた向こうに極楽がある。さて、ジイサン(ワイのこっちゃが)、白い道を通ってこれを越えられるか?
確かに『執着』(欲)、『瞋恚』(怒り)を超越したら(消えたら)どれだけ心が平安になるかもわからん。じゃけんどなぁ、ワイが『執着』(欲)を消しても相手や周りが『執着』(欲)を消してくれへんのは嫌や、みんなが平等に『執着』(欲)、『瞋恚』(怒り)を消してくれたわワイも消せる。
「ワイだけは嫌や!」
あ~ぁ、それがもっとも強い越えなあかん『執着』(欲)なんやよ、そしてワイだけは嫌や、みんな一緒でなきゃ嫌や、っつうのが『瞋恚』(怒り)の炎なんよ、
「うぅ~~~ん、彼岸に達するのはむつかしわ、迷いのうちに(準備できてへんのに)、あの世からの迎いやな。ナンマンダブ」
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