2020年6月7日日曜日

慈眼寺参拝その2 観音経をあげたこと

 慈眼寺は寺伝によれば平安初延暦年間に弘法大師が開基したといわれており、大師創建の寺はどこともそうであるように「大師伝説」が存在する。それは若き日の弘法大師が修行中、ここにいた悪さをする龍を退治したといわれている。その龍の住処であった洞窟も慈眼寺の広い寺域に存在し、洞窟巡りも信仰を集めている。もちろんこれは伝説であり、史料や遺物によって確かめられたわけではない。しかし古くから山岳仏教の聖地であったことは確かで10~11世紀頃には山岳修行者がここに登った形跡がある。御本尊の十一面観音像は空海作と伝えられているが、作風からみてもう少し後の藤原時代(摂関期)ではないかといわれている。

 登り口から二時間余りの登坂はきつかったが、ツツジやアジサイの花がほとんど途切れることなく道の両側に咲いており、また中小の滝も登山道から見えるところに数々あり、せせらぎの音、野鳥のさえずりとともに目や耳を楽しませる。もう少しで寺に着くという道の脇にはおいしそうな野イチゴがたくさん実をつけていた。こういう野生のイチゴはあまり甘みがなく、おいしくないのではと思いつつ、実をもぎると果肉が柔らかくジューシィな感じである。ちょっと期待しつつ口に入れると、結構あまい、栽培種のイチゴのような甘さはないが野生らしい好ましい甘酸っぱさが口に広がった。これだけ野生の実があればたくさん採ってジャムにしたらさぞかしよかろう、などと考える間もなく慈眼寺に着いた。

 山門はなく鐘楼の横が入り口となっている。

 横広の境内には納経所・寺務所、住居とともに大きな堂が二つ並んである。当然本堂かと思ったがさにあらず。大きいお堂が「大師堂」で左横にあるのが「不動堂」であった。本堂の「十一面観音堂」はここよりさらに山道を500mばかし登ったところにあり、その横には行場である「穴禅定」の洞窟がある。

 動画で見ると左に不動堂、右に大師堂、さらに納経所があるのがわかる。大師堂の上の山頂に石灰岩の露出した岩壁が見えるがこの下方に本堂と穴禅定の行場がある。
 

 そこから500mばかり登ると「本堂」と「穴禅定の行場」がある。写真左が本堂・十一面観音堂、右には穴禅定の行場入り口がある。

 穴禅定入り口(洞窟)

 穴禅定の修行(白い浄衣を借りて着け、ロウソクをもち案内人と一緒に洞窟内の行場をめぐる)は予め申し込みがいる(一人3000円のお布施がいるそうだ)。閉所恐怖症の人や足・体の不自由な人は勧められないとある。私は行わなかった。
 そのかわり本堂・十一面観音堂の前で「観音経」あげて私なりの祈願をした。その観音経の終わりの部分を読誦していて「具一切功徳、慈眼視衆生」のフレーズを読み上げたとき、はたと気づいた。ああこの寺の名は観音経の「慈眼」から由来しているのだと。


 帰りにインド人のお遍路さんにあった。笠杖、背中に遍照金剛の墨書のある白い衣装を身に着けた本格的なお遍路さんである(この慈眼寺は札所鶴林寺の奥の院に当たるのでお遍路さんの参拝コースとなっている)。山道でお互いすれ違うのだから挨拶以上の言葉を交わすものである。あちらの方から先に声をかけてきた。彼は袋に入った豆をボリボリ食べながら歩いていたが、挨拶が住むと私にいかかですかと袋を差し出す。ほとんど訛りのない日本語だ。歯を痛めているのでといって断ってから、今度は私が話しかけた。おそらく容貌や肌の色から、南アジアの人(インド・パキスタン・ネパル、スリランカ)じゃないかと思いつつ、どちらのお国の方ですか、と聞いた。やはりインドだった。

 インドの人はほとんどそうであるが彫が深くまつ毛が長く目が大きくぱっちりとしている。微笑むと柔和で優しく見えるし、黙するとなんだか哲学者のような深遠な表情となる。私がインドはお釈迦さんの生まれた国で一度は行ってみたい大好きな国であるというと、喜んでぜひ来てくださいという。彼は「バラナシ」という地名を挙げ、そこの名前をまず第一に覚えてください。必ずそこへ行かれるのがいいですよという。お釈迦さんの活躍したのは中インドのガンジス川中流域だ。バラナシも確かお釈迦さんが最初に修行したところじゃなかったかなと思い出す。あなたもガンジス中流域出身ですかと聞くと、彼は南インドだという。あまり根掘り葉掘りも聞けないので最後に印度はヒンドゥー教がマジョリティーと思うんだけれど、と聞いたら彼の宗旨はキリスト教とのことだった。それ以上は立ち入って聞かなかった。お四国巡りのいいところはどんな宗教の人でも巡礼できるということだ。お互いに道中の無事を祈る別れの言葉をかけながら別れた。

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