2020年2月13日木曜日

こくぞはん

 虚空蔵菩薩さんちゅう仏さんがいる。どちらかというと有名な仏さんでない。ワイがチンマイときには明治生まれの祖母がよく寺などに行ったとき、本尊も含め境内のあちこちにある脇仏も礼拝した。「かんのんはん」「おっぞはん」とともに今から考えると「虚空蔵菩薩」にも礼拝し、傍にいるわたしに「おまいも手ぇあわして、こくぞはんに、よぉ~お参りしぃや~」といっていたのを覚えている。しかし現代では虚空蔵菩薩と聞いて、え?こくうぞうぼさつ?いや~知らんな、聞いたこともないわ。米の害虫の一種でぇ?(そりゃ、穀象虫・コクゾウムシやろが!)ととんでもない返事が返ってくるくらい知られていない。若い人も含めた現代人がだいたい知っている仏さんといえばどういう仏さんだろう。

 まずお釈迦さん、仏教の開祖でみんな知っている。それから阿弥陀さん、南無阿弥陀仏っちゅう言葉を聞いたことない人はおらんやろ、それから観音さん、お地蔵さん、ここまでは学校の教科書にも載っているくらいだからまず知ない人はいない。それ以外となると急に知らん人が増えてくる。お薬師さん、文殊菩薩はんとなるとどうだろうか。でも「三人寄れば○○の知恵」の○○には何が入るでしょうか?と聞くとまず「文殊」と答えるやろ、と思いたいが、なんかとんでもない答えが返ってきそうである。お薬師さんの方は多くのお寺で御本尊として祀られている割にはあまり知られていない。現代人は病気になればまず病院へ行く、そうすれば病名も確定してくれるし、その症状を即効的に改善してくれる処方もしてくれる。大したことなければ服薬のみで済ます。お薬師さんに平癒を頼むこともなくなっている。お薬師さんの名があまり知られなくなったのも時代の趨勢かなぁ。

 虚空蔵はんになればもっと著名率は下がる。真言宗の修行の中では大変重要な仏さんであるが、そんな修行の通(つう)が幾人もいるわけないから知らないのも当たり前である。また十三仏の一つではあるが、十三仏のしくみも今は注目されることが少なくなっている。ただ虚空蔵さんは「守り本尊」として護符的な意味で知られることがおおい仏さんである。

 現代、あまり宗教に関心のない人でも西洋流としては、占星術やタロット占い及びそれに基づくなにか「護符的なもの・あるいは行為」、神道流では陰陽道系の護符、そして仏教系では咒言真言あるいは先に言ったような「守り本尊」としての仏さんのお守り、などがジジババだけではなく若い人、それも女性などに関心が高まっている。その中で虚空蔵はんは「丑(うし)・寅(とら)年と1・2月生まれの人の守り本尊」であるから、それに該当する人(若い人も含め)には虚空蔵菩薩は意外と知られている。

 それにしてもこの仏さんの名前の「虚空蔵」というのは不思議な文字である。「大日はん」は「世界を遍く光明で照らす」という意味を含むから「大日」すなわち「大いなる日」という意味に理解できる。「観音はん」も「観世音菩薩」で「世を観たまう(すべてを知ることはすべてを救済することと同じと考えられる)」何となく文字の意味が納得できる。それに対し、「虚空」+「蔵」、うぅ~ん、何のこっちゃ?「虚空」を強いていいかえれば空虚な空間、とでも言おうか。でも空虚な空間という意味を含む仏さんがなんで衆生の救済の菩薩さんと結びつくんやろ。

 そこで浅薄ながら本などでちょろっと調べた。まずワイが重視したのはその「生まれ・ルーツ」である。だいたい仏・菩薩・明王・天などはほとんどがインドがルーツである。それらの個々の仏はんはインドにルーツを遡るほどそれぞれにかなり強い個性を発揮してくれるので、特にその名前が付けられた意味を知るには起源のインドではどうだったかを知るのは大変参考になる。

 そうするとワイが思いもしなかったことがわかったきた、でもよく考えればなるほどと納得することではあるが。それはまず「○○蔵」の「蔵」の文字に着目する。そうすると「虚空蔵」はん以外に「○○蔵」がある仏さんは・・・そう!よく知られた「地蔵」はんがいる。そして「蔵」の前に来る二つの仏さんの文字を対比させると、「虚空」~「地」、そうつまりこれは「大いなる空」と「大いなる地」、いいかえれば「大空」~「大地」の対比になる。そのためルーツのインドでは「虚空蔵菩薩」と「地蔵菩薩」が空と地のように一対で作られていたのである。日本でも最も古いこの菩薩の作造例では対になった虚空蔵・地蔵菩薩が知られている(後にはそのような対の作例は皆無となるが)。

 古いインドの空と大地の神々、それらにこの二菩薩の最初の流れがありそうである。古代においては多くの民族に「大地」の女神信仰、つまり「地母神信仰」が見られるのが知られている。大地は農耕の最も基礎となる「土地」であり、それは潜在的な生産力を含む大地、となる。生産力を祈るのに「地母神信仰」が古代世界共通に見られるのも頷けることである。なぜ母神かは、土地が作物を生むのと同様、母は多くの「子」を産み、豊饒の母体という意味で大地と重なる。そうすると対になっている「大空」もやはり、人々に豊饒をもたらす元と考えられる。空から落ちる恵みの雨、天空から降り注ぎ作物を実らせる陽の光、みんな空からやってくる。いやそればかりではない、空から降り注ぐその他のもの、月の光や星の光でさえもなにか神秘的な影響をもたらすものと考えられた(それは作物の豊作や家畜の増殖など目に見えるものばかりではなく、人の内部にある知恵、知力、幸運などとも考えられた)。

 虚空(つまり大空と解釈した場合)にはそのような「豊饒」(物質だけでなく人の心のなかのモノも)の意味もあるが、古代インドの仏教学者は極めて深い哲学的思索や瞑想を行った人々である。「虚空」には豊饒とは違ったかなり難解な意味も付与しているのではないかとオイラは思うのである。

 各種仏像の種類性質を概略した本の解説によると「虚空蔵菩薩」はんの命名については次のように言われている。

『智慧と福徳が虚空のように、天空・大空のように、かぎりなく、はてしなく、尽きることがなく、まさに無尽蔵であるという意味から虚空蔵菩薩と名づけられたという。』

 これから浮かび上がるキーワードは二つ、一つ目は
 『無限の広がり(虚空の意味)』
 そして二つ目はその虚空は
 『無尽蔵(無限)のモノ(この場合、知恵・福徳)が蔵されている(蔵にしまうように)』

 まず無限の広がりの虚空であるが、普通に解釈すると際限なく広がる物質の何もない空っぽの空間しか思いつかない。つまり真空が無限に広がる空間である。空虚でな~んもない、でもそこには汲めども尽きせぬモノが蔵されている。はたしてそのようなことがあるであろうか?

 ワイがベチャクチャと説明するより百聞は一見に如かずで、密教の宇宙観を表す金剛界曼荼羅の中心部「成身会(じょうしんえ)曼荼羅を見てみよう。

 上が成身会曼荼羅図。真ん中の中心には宇宙そのものの化身であり宇宙に遍在する化身の「大日如来」がいる(智拳印を結んでいる)。注意してほしいのはその余白である。リアルな(現実の)宇宙空間と比喩的象徴的に例えるならば各仏が銀河太陽系のような一つの世界、他の仏は何万光年も離れた別の星雲系の世界とでもいおうか。そして余白は当然それらの系(銀河星雲とかアンドロメダ星雲とか)の間に広がる「空虚な宇宙空間」になる。物質は無く、真空の空間である。
 その余白をよく見ると何か模様のようなものが見える。うん?成身会の仏と仏の間の余白には何か模様なものが存在している?

 そこでこの部分、四角で囲ったところを拡大してみよう。

 するとなんと模様と見えたのはギッシリと詰まった無数の仏たちである。仏と仏の間の余白、いわば虚空は空虚な無の空間ではないのである。そこには仏が遍く詰まっている。この余白の模様のように見える無数の仏を「賢劫仏」と呼んでいる。

 なるほど成身会曼荼羅世界の余白の空間(虚空と比喩的に言っていいだろう)は決して空虚な無ではなく賢劫仏という無数の仏が余すところなく存在しているのはわかった。でも我々が存在している現実の宇宙はそうではあるまい。真空に限りなく近い膨大な空間が存在し、理論的には「真空」さえ考えられる。それこそ真の空虚であり無の空間であるのではないか?仏教のいうような尽きせぬモノが蔵されている虚空なんどということが信じられるはずはない。

 はたしてそうか?20世紀の初めまでは、物理や天文学の知見によると、真空は(理屈では)存在し、それは何物をも含まぬ空疎な無の空間であることに疑問は持たれなかった。ところが20世紀初めにそれまでの物理・天文学の常識がひっくり返されるような学問分野が生まれてきた。「量子力学」である。その量子力学の扉をギギギィーと恐る恐る開けてみると、ちょっと信じがたいとんでもない言説が飛び出てきた。それをちょっと漫談風にまとめてみた。

 「あんなぁ~、真空はなんもない無の空間ちゃうでぇ、実はな、真空は負のエネルギもった電子がびっしり詰っとんやで、イギリスの偉い学者のディラックっちゅう人がいうたんや」

 「なんやそれ、むつかして、よ~わからんが、真空は無の空間でなく、なんやら知らんがけったいなもんがいっぱい詰まっとるっちゅうこっちゃな、ともかくワイが真空は空虚な無の空間と思とったんとはちゃぁうちゅうこっちゃな」

 「おっさん、驚くのはまだ早いで、それからちょっと後のやっぱイギリスのホーキングっちゅう学者はんは、なんとホンマになんもない「無」の空間から、なんやったかな、そうそう「虚数時間」ちゅうたかいな、いやぁ~「虚空間」やったか、その揺らぎがどうたらこうたらで、なんと「無」からビッグバンちゅうて、ポンてはじけて「有」つまり花も実もある「宇宙」が生まれたそうや。」

 「え~、ワイの理解の埒外なこといわんといてほしわ、虚なんたら、揺らぎたらで「無」から宇宙が生まれたてかいな?そんなこととても信じられへんわ。そいつホンマに学者か、ほててんごのかわぬかしてけつかるんとちゃうか。」

 「いやいや、おまいの何万倍も頭のエエ大勢の学者はんが納得してる理論らしでぇ」

 「ふぅ~~~ん、長生きはしてみるもんやな、なんもない真空空間と思ってたら、そこは真空ちゃぅ、なんかがびっしり詰まっとるっちゅうし、それどころかしまいにゃ宇宙は「無」から「有」が生じるようにでけたってか。めまいがしそうな話やわ」

 とまあ、量子力学で素人が一番驚くようなセンセーショナルな言説を長屋談義にするとこうなる。そんなことを聞いたあと、仏教の「虚空蔵」はんにかえり、仏教の言説をもう一度噛みしめてみると、虚空蔵の「虚空」には無尽蔵のモノが蔵されているという。なるほどなるほど、うんうん。量子力学風の談義を聞いた後では、なにやら「虚空」が意味深に思えてきて、確かに「虚空」から無限のモノが生み出され、汲めども尽きない蔵のようなものであるという不思議な言説も信じられるようになるから不思議である。虚空蔵はんの「虚空」と「蔵」に現代量子力学に似通うものを見るのはオイラだけだろうか?

 まあそれはともかく、虚空蔵菩薩さんはインドで生まれ中国を経由して日本に入ってくるまでに広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩という意味が付与され、そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰されているのは事実である。お大師っさんが虚空蔵菩薩のこのご利益に着目し、「虚空蔵菩薩求聞持法」を、ここ四国の行場で修したことは有名な話である。お大師っさんは千年に一度現れるかどうかの天才だが、この虚空蔵菩薩求聞持法を修したことがそれにあずかっているのかもしれない。そのため今でも行場などで虚空蔵菩薩求聞持法を行う人がいる。これにはいろいろ作法があるそうだが、聞くところによると虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えるそうであるから、並大抵の人が手ンごろ易くできるわけではない。ちなみにその真言は
 「なうぼう、あきしゃきゃらばや、おんありきゃ、まりぼりそわか」
である。

 四国における虚空蔵菩薩が本尊の寺はそのためか修行場の近くの寺が多い。室戸の洞窟の近くの寺、そして太龍嶽近くの寺などである。先月行った取星寺も御本尊は虚空蔵菩薩である。取星寺の本堂の御本尊は見られないが境内に虚空蔵菩薩像があるので見てみよう。

 厳しい修行の御本尊ではあるがお優しいお顔をしている。そして特徴的な持ち物(三昧耶形)は宝剣と宝珠であり、それぞれの手にそれを持っている。

 ウチの近くでは御本尊ではないが藤井寺に虚空蔵菩薩はんがいらっしゃる。地元では奥の院と呼ばれる谷の奥に虚空蔵菩薩像があり昔から信仰を集めている。

 ここ藤井寺は焼山寺手前の里にある寺ではあるがお大師っさんがこの谷で修行したという伝説のある「八畳岩」がある。下がその八畳岩の動画である。

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