「須磨はマイナーな観光地なんだなぁ」
と思い知らされるには十分な静けさであった。ワイの思い込みから言うと、須磨・明石といえば源氏物語における光源氏の流謫の巻が思い出され、しみじみした情景などが思い浮かんでくる。また源氏物語の内容を知らない人でも、須磨や北淡は百人一首にそれぞれ二首も取り上げられているため、普通の人にも十分有名であると思っていたが、どうもそうではないようだ。この日は友人と二人で北淡、須磨をまわったが、その百人一首の
「淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守」
「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」(松帆の浦は北淡の先端にある海岸)
でこの地は有名なのだ、と説明したがどちらも
「知らん!」
とか言っていた。まあそうだろうな、明治大正期の人ならば百人一首はすべて覚えていてどの和歌もすらすら口をついて出てきたが令和の御代に生きる人でそんな人は一割もいるかどうかだろう。むしろ須磨は前のブログで紹介した平家物語の「敦盛最後」の地として知られている率が高い。現代人には男女や人々の細やかな情を描く「源氏物語」より、きらびやかな栄華、華々しい戦闘などの叙事詩的な記述の「平家物語」のほうがよく知られていて好まれている。また映画、ドラマ、舞台、歌舞伎にも平家物語は多く取り上げられているので「敦盛」のことは意外と知っている人が多い。
実はこの友人はかなりの歌舞伎ファンなので「敦盛最後」のことは歌舞伎の舞台でよく知っていた。歌舞伎の敦盛最後を描く演題は『一谷嫩軍記~熊谷陣屋』である。ところで二人で須磨寺の庭で敦盛と熊谷直実の騎馬像の銅像を見つつ話しをつき合わせると二人が知っている「敦盛最後」の内容がかなり違うのである。こういうのはよくあることで、歌舞伎は「実は・・・」などと言いながら、ほとんど史実を無視して、意外な人物が名もなき配役の中に隠れていたり、悪人はホントは善人であったり、また死んだとおもわせて別の人物を殺し、本人は生きていたとかいう手法がとられる。友人の歌舞伎を通して知っている敦盛はまさにその手法をたっぷり使った芝居であって、実は敦盛は熊谷との一騎打ちでは死なず生きているのである。身代わりに死んだのは直実の一子、小次郎で、この身代わりを容認したのは義経である、それというのも平敦盛は実は後白河法皇の御落胤であったというのだから、これぞ歌舞伎!というような筋立てである。
敦盛最後は千年近い大昔だから史実にいくつかの異説があるのはわかるが、歌舞伎の敦盛の筋立てはあまりにもブッ飛んでいて、信用度から言うと一騎打ちの結果、殺すに忍びない美しい平家の公達を心を鬼にして討ち取ったという平家物語のほうが信用できる。多くの歴史学者も須磨浦の戦い(一の谷)で敦盛は命を落としたとみられている。
一般的に言って現代人の多くは源氏物語、平家物語、百人一首など関心もなく、高校の時「古典」でチョロッと習ったっきりの人ばかりで、須磨明石の名所旧跡も知られておらず、そこがマイナーな観光地になるのも頷けることである。実はこのワイも先週の日帰り遊山で源氏物語や百人一首そして平家物語などを回顧しつつ、北淡~明石~須磨の旧跡を経めぐったが、歳ぃ食って記憶も薄れるどころが消滅してしまっていたものがあって、せっかくいいものを見ながら思い出せなかった史跡があるから偉そうなことはいえない。帰ってきてからあるきっかけで蘇ったものもある。次にその話をしよう。
淡路の最北端の岩屋港で連絡船を待っていた。半時間くらい待ち時間があった。待合室から見るとすぐ前は海の護岸があり、そこから小島が見えている。小島は岩石島であり岩肌は浸食でなかなか趣深い形をしている。褐色の岩肌が大部分ではあるがところどころに小松や灌木も生えている、高くない頂上には小さな祠が見えている。待合室の出口からは百メートルもない距離で護岸から一本の橋が渡してある。すぐそばにあるので待ち時間を利用して見に行った。小島に渡れるのかと思って橋を渡ったが渡り切ったところで通行止めになっている。横の説明板を見ると、この小島は「絵島」といい、名所旧跡のスポットで平家物語で清盛が月を愛でた場所という伝説が残っているという。
下がその「絵島」である。
この北淡・須磨への遊山は十日も前の話でいまさら思い出すような関心もなかった。ところが昨日、もう何週間も前から読み進んでいた「金閣寺」(三島由紀夫作)の英語翻訳の小説を読み終えた。なんで英語で「金閣寺」か?衒っているのかとも思われようが、高校時代に初めて読んで以来何度も読んでいていまさらまた読むには飽きていたので英文ででも読めばまた新鮮な読み方もできようかと思ったこと。そしてもう一つは歳ぃ行って物忘れが加速し、蓄えていた英単語も読むことによって再確認しなければどんどん失われるのでそのメンテナンスも兼ねてである。
昨日に読み切ったので、当然昨日読んだのは最終章の金閣寺を燃やす直前の躊躇、葛藤、そして実行を描いた場面である。三島の小説を読んだ人にはわかると思うが、彼の文体は比喩(暗喩も含め)が多く、また日本古典文学からの引用が多い。その中で(読んだのは英語翻訳文だが日本語に直すと)、主人公(金閣に放火する直前に)が暗闇の中ではあるがありありと実体感のある情景をみる部分がある、それに謡曲・弱法師の「俊徳丸」を比喩として出しているのである。
古典の中での俊徳丸は盲目である。当時(中世)、西方極楽浄土の門に最も近いといわれたのは大坂・四天王寺の境内の西門である。そこには阿弥陀仏の慈悲を頼って極楽往生を願う人が押し寄せている。浮浪者(境内にたむろする)のほとんどは不具者、不治の病(ライ病など)の者、乞食である。その中に俊徳丸もいるのである。盲目の俊徳丸は天王寺の西門(昔はそこから西方の海が見えた)に向かい極楽を実体験できる「日想観」を試みるのである。盲目で見えないのになぜか俊徳丸は「ああ、見える、見える、須磨明石、絵島が見える・・・・」とか言うのである。三島の「金閣寺」の主人公の描写比喩の中にその「日想観」そして「絵島」という語が出てくるのである。それを読んだときにピンときた。「絵島」?もしかして先日の連絡船待ちのときみたあの島か?実はそうだったのである。俊徳丸が盲目ながら見たのはその「絵島」だったのである。
十日前に「絵島」を見た時は「清盛の月見伝説」としか書いていない説明板しか見なかったのでわからなかったが、俊徳丸のこの「日想観」に「絵島」が出ていたのである。もちろんその話、ワイは以前から知っていたが昨日の三島の小説「金閣寺」の最終章を読んで気づかされるまで忘れていたのである。
古典の俊徳丸は敦盛の話と同じでいくつかの作品がある。引用しているのは謡曲の「弱法師」であるが「説教節」や歌舞伎の「摂州合邦ヶ辻」にも俊徳丸は出てくる。俊徳丸が天王寺の西門から西海に向かって「日想観」を行うが、地図を見るとわかるがまさに天王寺の西門の真西に当たるのが淡路の絵島、須磨、明石である。
「俊徳丸」「弱法師」「日想観」「天王寺の西門」などについてはよくわからない人もおられましょうが以前それについて書いたワイのブログがありますのでよかったらそちらもご覧ください。
●天王寺の妖霊星(ここクリック)
●やまさん中世を歩く その6 西への門(ここクリック)
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