2020年9月6日日曜日

20番鶴林寺参拝 その3

 鶴林寺参拝のその3については歴史的な参拝と重ね合わせて紹介しようと思っている。その参拝は今から370年ほど前、江戸時代前期の西暦1653年(承応二年)にここに参拝した澄禅(ちょうぜん)はんという僧侶がいた〔生没年・慶長13年(1608年) - 延宝8年6月12日(1680年7月7日)は江戸時代初期の真言宗の僧〕。その人がかなり詳細な日記を残しているのでそれを見て当時の鶴林寺参拝がどんなものであったのか見てみることにしよう。

 まず澄禅はんは前日は恩山寺を参拝した後、寺より東南約十町ほど離れた民家に一宿している。そして明けた7月29日は、恩山寺の次の札所、立江寺にお参りしている。ここで澄禅はんはこの立江付近の地形について言及しているが、なるほどなというものがあるのでそれを紹介しよう。この立江寺周りは広い畑や田に囲まれているため海まではかなり遠いだろうと予想される。汽車で行くと立江駅手前の赤石駅あたりは海が近いとなんとなくその風景からわかるが、この立江付近かなり遠望が利くが海など見えない。

 しかし歴史的に見ると海岸線はどんどん沖の方に移動する傾向がある。数千年前の縄文時代、山裾までほぼ海が来ていた大海進期から海岸線はどんどん沖の方へ向かって伸びて行った。理由としてはまず第一に洪積平野や沖積平野の中を流れる河川の堆積、そして人為的のものとして干拓があげられる。農地をひろげるために海を埋め立て、あるいは入り江,砂洲などを囲い込み陸化させるのは江戸時代になると盛んに行われたのである。この立江でもそうであった。でもまだ澄禅はんの巡礼した江戸前期はまだ干拓が進んでいなかった。

 彼の日記である
 『此の景誠に立江なり、海より此処まで、川のように入り江あり、三里余りなり、寺右奥へも十四、五町入るなり・・・』

 なるほど寺近くまで入り江が入っていたのである。「立江」という名前に、澄禅はんが「この景色誠に立江(にふさわしい)なり、」と頷く様な景色だったのである。今からはその昔の景色は想像がつきがたい。

 さてその日のうちに(29日)鶴林寺の参拝をしたい澄禅はんは鶴林寺への道を急ぐのであるが、どうも道がややっこしくて(澄禅はんは、マギラワシキ道、、と言っている)、ちょうど通りかかった渭ノ津の塩商人・忠次郎(塩商人忠次郎については別のブログがある、ここクリック)に道を教えられ、鶴林寺への参詣道の川原ににでた。これは勝浦川でこの川原に出れば上流へ辿れば鶴林寺の登山口へ迷うことなく行ける。どこの川原かわからないが今の登山口のある生名よりはだいぶん下流であろう。澄禅澄はんは、ここで村人に問うと六十八町(約7km弱)あると教えられている。

 先日、ワイが登った時も坂はかなり急で、暑さもあり、八合目越えるくらいからは100mごとに休み休み汗を拭きながら登ったが、澄禅はんも同じで、「・・汗を流し、坂中にて幾度も休み、漸々(ようよう)山上の境内に至る」とある。澄禅はんの参拝日は旧暦の7月29日、新暦はだいたい一ヶ月くらいそれより遅れるから、まさにワイの参拝した8月30日と重なる。暑さの中の登攀で苦しかったワイと一緒や。

 令和の御代のワイは写真や動画で境内の様子を紹介できるが澄禅はんは文章による描写しかできない。それを読むと

 仁王門があり、本堂は南向き、御影堂(大師)、鐘楼もあり、寺の坊(僧侶たちが住む住居)も六棟あり、なかなか立派なお寺であることがわかる。寺領百石とあるからかなり藩から優遇された寺であるようだ。それとこの時代、御本尊は直接拝めたようだ。大師御作、高さ一尺八九寸とあるから50cmくらいか。御本尊の光背の板が失われているといっているから拝みながらよく観察したのだろう。あと寺宝として小さな鐘、鎌倉殿(頼朝か)より寄付の錫杖を記述しているからこれも近くで見たのだろう。今だと寺宝館拝観料がいるがこの時代はどうだったのだろう。(澄禅はんは真言宗の僧侶なので特別便宜を図り、いろいろ見せてもらったのかもしれない)

 澄禅はんはその日(29日)のうちに鶴林寺参拝を済ませた。立江から三里、約12km、しかも険しい山を登り、頂上付近の寺まできて参拝したら、おそらくもう一日の終わりが近づいていたことだろう。澄禅はんの日記によるとこの日は鶴林寺の寺坊(上記の六坊の一つ)・愛染院に泊まったことが記されている。坊主たちとなぜか深夜まで話をしたようである。夜更かしして元気なように見えてはいるが、いやいや(自分としては)むしろしびれた様に疲れていたと感想を述べている。戌の刻(夜の午後9時前くらいから)雨が降ると記してこの日の日記を終わっている。(翌日は晴れになり太龍寺に向けて出発している)

 澄禅はんよりずっと後の時代、江戸中期になるが、阿波名所図会に鶴林寺があるので見てみよう。

 図絵の下のほうを川が流れているがこれは勝浦川、左が下手となる。川に沿って左から道が続いている。中ほどに三人の姿が確認できるが参拝者であろう。このあたりから右上方への登坂となる。右山の尾根下に鶴林寺の境内がある。わかりにくいので拡大図も一緒にあげた。

 現代のこの図絵付近の地図をググルアースの鳥観図で見ると下のようになる。

 鳥観図の下を勝浦川が流れ、川沿いの平地の里(生名)あたりから右斜め上に山を登ると頂上付近に鶴林寺とある。上の江戸期の阿波名所図会によく似ていることがわかる。

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