2020年9月26日土曜日

上勝の深山であったインド青年について考えたこと

  6月7日のブログの中に山中であったインド青年が出てくる(読んでない方はここクリック)。人の宗教信条を詳しくは立ち入って聞かないのは日本の常識だが、人懐っこいインド青年でお話好きでもあるらしいので(日本人の目で見ると、インド人はおしゃべりで陽気な人が多い。シャイなインド人と言う二つの言葉は結びつきにくい)、これくらいは聞いてもいいだろうと「インドではヒンドゥー教がマジョリティーだと思うんだけれどあなたもそうですか」というと「いえ、僕はキリスト教徒です」と彼の方から答えてくれた。お互いの宗教信条についてはそれ以上話さず、後は一般的なインドの観光・文化・歴史・ヒンドゥーの聖地に話になった。

 その中で私が強く興味を持っていたインドのある宗教宗派について聞いてみた。

 「古代ペルシャの民族宗教であったゾロアスター(ツァラトゥーストラ)教が3000年を経ても滅びずにインドのボンベィあたりにパールスィー(ペルシャのインド訛り)教として残っていて長い伝統の命脈を保っているのを最近知って歴史好きの私としては感動したんですよ」

 と話すと、彼は「おおパルスィね、うんうん、」とこれまた愛想よく答える。しかしそれ以上に話は展開しなかったから、彼はその宗教についてあまり知らないか、あるいはキリスト教徒として他宗教には関心がないのかだろうと思い、インドの宗教聖地の話になった。

 さて、ここで現代インドの宗教事情を見ると、この国くらいあらゆる宗教が存在しているところは珍しい。そしてそれらが平和的に共存共栄している状況を見ると、(インド以外の文化圏と比較すると)宗教的寛容さが大きいのではないかと思ってしまう。しかしそれは相対化した宗教平等主義や、他者(宗教)尊重の近代的合理精神に基づくものではない。この点インドは日本の宗教事情と似ている。どちらも多神教世界という共通点がある。この世界でよく言われるのは、要するに「他人の神棚や仏壇にチョッカイをださない。」ことである。また多神教世界では一人の人間が多くの神を信じることも許される。時と場所によって多くの神を祀っている。そのため隣人がどんな神、あるいは宗教を信じようが、社会的付き合いにほとんど影響をもたらさないのである。これが多神教世界の宗教的寛容の実態である。

 インドが日本よりこの点、もっとすごいなぁと思うのは、その社会の中に、排他的宗教であるイスラム教やキリスト教も包摂していることである。日本では(明治以降は別として)排他的宗教であるキリスト教は受け入れなかった。日本の宗教的寛容性から言えば唯一の例外であったが、キリスト教だけは排除したのである。これはキリスト教の神が唯一絶対である、という信仰そのものを忌避したためではない。信者がそのように思うことまで否定するほど日本は非寛容ではなかった。そうではなくて祖霊信仰や民間信仰を否定し、また神社・仏閣の破壊に及んだからである。そして信者を構成者とする「島原の乱」が起こるに及んで幕府・各藩による徹底的な禁教政策が実行されるのである。

 インドでも中世以降(11C~)唯一神宗教(イスラム)が入るにあたっては大いなる軋轢があった。そして日本よりもっと大変だったのはイスラム教が征服者・支配者の宗教であったことである。多神教世界(ヒンドゥー)のほうが弾圧される側となるのである。キリスト教の入る以前の欧州やイスラムが征服する以前の中東には様々な土着信仰(多神教世界に似ている)が存在したはずだが、ほとんど痕跡を残さず滅ばされてしまったことを考えると、人口では多数派でありながら、もしかするとそれらの信仰が滅ぼされていた可能性が大きかったのである。しかし多神教世界(ヒンドゥー)は支配者の圧力にも屈せず、しぶとく生き残ったのである。為政者がイスラム信仰である場合、イスラム教も徐々にヒンドゥーの被支配者層に浸透していったがインド北西部以外は多数派とはならなかった。そして支配者の宗教の動向はともかくイスラム教も含めてヒンドゥー社会には多くの宗教が混在するのである。

 私のような歴史好きにとって、このように時代を経ていろんな宗教が入って来ても、昔からの伝統的な宗教も同時並行に存在する社会は魅力である。それらは古代の人の信仰や精神生活を知る上での生きた史料となりえるからである。だからこそ3000年来の伝統を持つ古代ペルシャ(むしろアーリヤといったほうが正しいかも)の宗教・ゾロアスター教の伝統を引くインド・ボンベイ付近のパールシー教に興味がわくのである。それと同じくらい古い伝統を持つ宗教・ユダヤ教も西インドには残っている。しかしユダヤ教は現代でも色々な意味で有力宗教であり、パールシー教のような細々と伝統を伝えるようなものではない。

 歴史的な深みのある宗教を残しているインドではあるが、われら日本人にとって残念なのは、「インドでは仏教はお釈迦様が生まれた地であるにもかかわらず滅びてしまった」と言われていることである。この言葉、最初は私も鵜呑みにしてしまった。しかし最近はそうかなぁ、いやそうではあるまい、と思っている。インド文明圏という言葉が許されるなら、それはスリランカも含まれる。スリランカでは仏教は最有力の宗教である。またインド本国においても東インドの山岳地帯、ネパール国境付近などにはそれこそパールシー教のようにインド仏教が細々と生きているのである。

 またこれもよく知られていることだが、ヒンドゥー教のパンティオンの中には仏教の開祖であるお釈迦さまが存在している。ヒンドゥー教の有力神の一つにヴィシュヌ神がいるが日本の密教の大日如来様のように、ヴィシュヌ神はさまざまな他の神の尊格をあわせもっている。確かその九番目の尊格がお釈迦さまである。つまりお釈迦さま(仏教)はヒンドゥー教の中に取り込まれてしまっているのである。こうみると果たしてインドにおいて仏教が完全に滅びてしまったと言えるのだろうか。これは日本密教においてもよく似たことがある、密教の曼荼羅の中にはヒンドゥー教の有力神がずらずらとたくさん入っていてそれらヒンドゥー起源の神・仏も信仰を集めている、日印お互いさまである。日本においてもインドにおいてもこれはヒンドゥーと仏教(密教)がある部分融合したものとみなすことができる。実際にヒンドゥー教の寺院にはヴィシュヌの第九番目の尊格のお釈迦様の尊像があり祀られているから、インドでは仏教はヒンドゥー教という織物の織り糸の一つとして入っているのである。

 インドの宗教の多様性・寛容性について最近あることを知ってちょっと感動したことがある。それは最初に戻るが、あの上勝の山中であったインド青年のことについて考えて、調べた結果である。彼は「キリスト教徒」であるといったが、それ以上のことは言わなかったしこちらも聞かなかった。その時の私の知識としては、インドにおけるキリスト教は恐らくカトリックかプロテスタント、南インド青年ということを考えるならおそらくカトリックだろうと思った。なぜなら1498年、ポルトガルのバスコダガマが南インドに着き、その後、南インドの港湾を中心にポルトガルが勢力を広げていき、同時にカトリック信仰も宣教師の活躍もあって広がったことは、世界史の常識であるからそのように考えたのである。また一方、カースト差別が現代でも残るインドにおいて神の前の平等を強く主張するキリスト教にこの青年の世代が魅かれ、最近に入信したことも考えられる。その場合、プロテスタント系キリスト教であることも考えられる。

 ところが、歴史好きだとは言いながら南インドの宗教事情に対する不明を大いに恥じるのであるが、調べるとなんと南インド(特にケララ州)には全人口の2割近くを占める大変古いキリスト教の宗派(インド独特)があったのである。大航海時代のはるか以前、西欧にキリスト教が伝わる、あるいは日本に仏教が使わるずっと以前にインドにはキリスト教が伝わっていて、脈々とその信仰の流れは2000年を経て今に至るまで途絶えなかったのである。

 キリストが磔刑になってまもなく十二使徒のひとり「トマス」がこのインドに布教に来ていてその信仰を植え付け、広がる元を作っていたのである。その流れを引くのがインドでは「トマの子」とも言われ、また専門的にはインドにおけるキリスト教非カルケドン派と呼んだりしているインド独特のキリスト教宗派である。その儀軌、教会、聖堂内のつくり、などを見てみると例によってヒンドゥー教の影響もかなり受けていると思われる。また16世紀が始まると戦闘的なカトリックの宣教師が新参者としたやってきて布教を始めたため軋轢を生み、近親憎悪のようにカトリック側からは異端として烙印を押されたりするが、途絶えることなく現代まで多くの信者がいてその信仰を守っている。

下はその教会のようすと聖職者(主教)

 この南インド青年、インド独特の「トマの子」と呼ばれる古いキリスト教宗派であると断定はできないが、南インド出身ならその可能性は大いにある。もしそうだとすると2000年にわたる先祖伝来の宗教である。他にもインドには前にも言った3000年来のゾロアスター教、2500年来の仏教が生きている、そして南インドの港湾都市にはここにやってきて1500年以上とも言われるユダヤ人もいる。それらのことを知るとインド世界の宗教的多様性(もちろん寛容性も含む)とその歴史の長さに感動してしまった。ますますインドが好きになりそうである。

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