前回ブログの立江寺についての澄禅の記述は次のようなものでしたね。
『立江寺、本堂東向本尊地蔵菩薩、寺ハ西向、坊主ハ出世無学ノ僧ナレ共世間利発ニシテ富貴第一也。堂モ寺モ破損シタルヲ此僧再興セラレシト也。堂寺ノ躰誠ニ無能サウ也。此景誠ニ立江ナリ、海辺ゟ爰迄川ノ様ニ入江在、三里余リ也。寺右奥エモ十四五町入也。夫ゟ西ヘ向テ野坂ノマキラワシキ道ヲ往ニ猪ノ津商人ノ忠次郎ト云人、馬ニ塩俵ヲ付テ往ヲ此人ニ道知ルヘセラレテ・・・』
最後から2行目の、・・夫ゟ西ヘ向テ・・、以下は立江寺から鶴林寺に行く道の記述でしたが、ここで阿波の商人が出て来ますね。これについて今回は書きます。
鶴林寺へ行く道は野中の細道で分岐しているところも多いためわかりづらい。ちょうどそこへ通りかかったのでしょう塩商人がいたので道を教えられます。
町中の塩商人は振り売りが普通で左のような格好をして売り歩きます。これは江戸の塩商人です。
しかし鶴林寺へ行く途上に出あった塩商人は田舎へ塩を売りに行く人です。小売というよりかなりまとまった大口需要に供するため運んでいたと思われます。
猪ノ津(いのつ)商人とありますが、猪ノ津とは今の徳島市の中心部です。城下町の商人です。そして売る量大きく運ぶ距離も長いので馬に塩俵をつけて運んでいるとかかれています。
このようにして運んでいたのでしょう。
猪ノ津商人忠次郎と名乗っていますから、ただ単に道を聞いただけではなく、いろいろお話もしたのでしょう。一枚目の写真のようなその日暮らしの棒手振りではなく、徳島城下に店を構える立派な塩商人であったと思われます。
下は塩屋の店先。俵につめられているのは塩。ざるを持ったおかみさんが塩を買いに来ている。このように小口の販売もする。
江戸と違い阿波の田舎では、どこのうちも味噌や漬物などは自分の家で作る。大百姓などは何樽も作る。そのため田舎では小出しに買うより、俵で一度に仕入れることが多かった。忠次郎が馬の背に何俵も乗せて行商に出ているのもわかりますね。
阿波の南方は北方よりも商品経済の浸透は遅く、自給自足が原則で食料品の購入は極力抑えられましたが、「塩」だけは内陸部で自給自足など無理なので買い入れました。映画『楢山節考』の舞台となった部落はとても貧しい生活をしていましたがそれでも塩だけは購入せねばならず、塩商人が部落に入っていたシーンがあったのを思い出します。
江戸時代、塩はそう高価なものではありませんでした。ローマではサラリーは塩(ソルト)が語源だとか、塩を給与で受け取るから兵士はソルジャーとか言うという言葉があるように、世界史的には塩は貨幣の代わりとなるほど貴重なものでした。
しかし日本では比較的(同時期のユーラシアと比べると)安いものでした。ことわざに
『塩をなめて暮らす』
というのがありますね。金の要る食べ物を極力押さえ最低限の粗食で暮らす、というたとえでしょうが、塩がそんなに貴重ならこんな言葉も生まれないでしょうね。 日本は海岸線が長く、作ろうと思えば何処の海岸でもできます。海藻に海水を何度もぶっ掛け、何度も乾燥させ、その海藻を焼けば塩が取れます。手間ひまはかかるがやろうと思えば誰でも作れる。(藻塩作り)
ところが昔の中国は塩は専売、驚くほど高率の塩税がかけられているので原価プラス高い塩税で大変高価なものです。しかし必需品なので買わざるを得ない。中国のある王朝なんかは全収入の半分以上が塩税によってまかなわれたといいます。そのため塩税の負担に耐え切れなくなり民衆が大規模な反乱を起こし、王朝が倒れたことが何度もあるのです。これらの大陸諸国は海岸から非常に遠い内陸部が大部分ですから、税のかからない塩をこっそり運ぶのは難しいのです。内陸に向かう主要流通路を政府が抑えれば、闇の塩は流通しにくく、政府による塩の専売、高率課税が可能だったのです。
塩が高いため中国は王朝を倒す反乱が起きました。日本では塩はそんなに高くなかったので、米の値上がりによる町民の一揆はありましたが塩の値段が怨嗟の的になったことはありません。
江戸時代の澄禅日記に塩商人が出てきますが、おそらく律儀で温厚な商人だったのでしょう。塩は江戸時代の日本では普通の商品ですからね。ところが中国では塩商人(もちろん闇商人)は全国規模のマフィアの親玉のようなもの、こんなのが生まれたのは王朝が専売して、むちゃくちゃな税を課したためです。アメリカのアルカポネが禁酒時代に闇酒を売りさばきのさばったのと似ているかもしれませんね。
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