澄禅さんの日記に焼山寺につく3kmほど手前から『・・・彼深谷ヘ下リ付テ見ハ清浄潔斎ナル谷河流タリ、此清水ニテ手水ヲツカイ気ヲ付、又三十余町上テ焼山寺ニ至ル。』とありますが、これが最後の難所といわれるところです。下はこのあたりから私が歩いた動画です。
キツイ山道を上り下りしてようやく焼山寺へたどり着きました。澄禅さんの日記を再び読んで見ましょう。
『本堂五間四面東向、本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔立也。古ハ瓦ニテフィキケルガ縁ノ下ニ古キ瓦在。棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知。堂ノ右ノ傍ニ御影堂在、鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ、先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由鐘ノ銘ニ見ヘタリ。当院主ハ廿二三成僧ナリ。扨、当山ニ奥ノ院禅定トテ山上ニ秘所在リ。同行数十人ノ中ヨリ引導ノ僧ニ白銀二銭目遣シ、彼僧ヲ先達トシテ山上ヲ巡礼ス。寺ヨリ山上エハ十八町、先半フクニ大師御作ノ三面六臂ノ大黒ノ像在リ。毒蛇ヲ封ジ籠玉フ岩屋在。求聞持ヲ御修行ナサレタル所モ在。前ニ赤井トテ清水在リ。山頭ニハ蔵王権現立玉ヘリ。護摩ヲ修玉ヒシ檀場在リ。如此秘所皆巡礼シテ下ルニ、又昔毒蛇ノ住シ池トテ恐シキ池在リ。夫ヨリ下リ下リテ寺ニ帰ル也。其夜ハ高野小田原行人衆客僧マジリニ十三僧一宿ス。』
17世紀末(元禄頃)の焼山寺の絵図を見てみましょう。
絵地図からも山岳寺院であることがわかる。焼山寺は藤井寺と違って古い寺楼が残っていた。澄禅は「いかにも古い建物・・」といっている。この絵図の製作年代は澄禅より数十年あとであるが建物・配置は澄禅時代と同じであったと考えられる。澄禅の日記とつき合わせて見るならその一致が明らかとなる。
まず本堂を見る。大門と書いてある山門を入ると正面にある(これは今日も変わらない)。日記では五間とある。まさにその広さである。「堂の右の傍らに御影堂がある」と記述しているが、図では大師堂というのがそれにあたる。
鎮守は・・・と書いているが、何度も言うように当時の寺は神仏混合である。鎮守とは寺の敷地内にある神様の社である。大門の横に鳥居があります。鎮守の神様を祭るしるしですね。そしてその神様は「熊野権現」と書いています。社造りの一番右の建物に「十二所権現」とあるのが熊野の神様です。また日記には書いていませんがその左に熱田の神様を祭っているのがわかりますね。
鳥居を入って左に鐘楼があるのがわかるでしょうか。澄禅の日記には鐘も鐘撞き堂も失われていたのをつい最近(慶安年間)再建したと書いています。また住職が22~3歳の正式な僧であると書いています。今までまわった寺では荒れて無住だったり、とても正式な坊主とは言えないものが住み着いていたりしてましたから、それから比べるとこの寺は大きく立派でちゃんとした僧侶がいる寺格の高い寺だったようです。
また澄禅は寺の参拝した後、奥之院に参っています。案内の僧に同行の12人から集めた案内料を払い奥の院めぐりをしています。図の左に見える山がそうです。
山上までは1,8kmほど、中腹に大黒堂があると書かれていますがわかり難いので拡大して指し示しましょう。
案内僧の解説付きであったであった。小粒銀2枚も払ったのでサービスもよかったと思われる。今ならさしずめ『弘法大師御修行の場巡りツアー』でしょうね。
下の写真は現在の奥の院の各場所です。
大蛇封じの岩
蔵王権現
蔵王権現からの眺め
夜は東国からの巡礼者(澄禅の知り合いもいたと思われる)23人と寺の宿坊で同宿する。どんな話をしたかは書かれていませんが話しに花が咲いたと思われます。
今まで澄禅の日記によって私も澄禅さんと同じ順序で寺を実際にめぐってきましたが、なにぶん自転車と歩きなので(もちろん毎日その都度家に帰る)、これ以上は順番にめぐるのは難しくなってきました。一応、日記に沿う形での巡礼の旅は今回で終わります。その他の個々の寺については、その寺に行ったときにまた江戸の巡礼の旅として、澄禅日記や江戸の絵図を元にブログを作り、アップしようと思っています。
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