澄禅さんは早朝藤井寺を参拝したが、ここに長くとどまることなく早々に次に向けて出発したはずだ、なぜならこれから八十八ヶ寺遍路旅の中で随一の難所を越えねばならないからだ。ここから焼山寺までは山道である。途中の山中で一泊するわけにも行かないから、日のあるうちに焼山寺へ着かねばならない。その決意をこめて澄禅はこのように書いている。
『(藤井寺を参拝した後)・・・是ヨリ焼山寺ヘ往ニハ大事ノ山坂ヲ越行事三里也。阿波無双ノ難所也。』
途中の描写についてはかなり詳しく書き記している。
『先藤井寺ノ南ノ山エ上ルニ峯ヲ分雲ヲ凌、一時辛苦シ大坂ヲ上リ、峠ト思キ所ニ至テ見ハ、其サキニ又跡ゟ(より)モ高キ大坂在リ、樵夫ニ逢テ是ゟ焼山寺エハ何程斗在リト問ハ今二里也ト云。自他トモニ退屈シテ荷俵ヲ道中ニ捨置テ休息ス。又思立テ件ノ坂ヲ上リテ絶頂ニ至テ見ハ向ノ山ニ寺楼見ヘタリ。是コソ焼山寺トテ嬉ク思エハ寺トノ間ニ深谷在リ、道ハ其谷ノ底ニ見タリ。爰ニテ飯ナトイタシ彼深谷ヘ下リ付テ見ハ清浄潔斎ナル谷河流タリ、此清水ニテ手水ヲツカイ気ヲ付、又三十余町上テ焼山寺ニ至ル。』
焼山寺参拝道の澄禅さんの苦しみは私も実感して知っている。と言うのも二年前のちょうど今頃の時期丸一日かけて焼山寺を参拝したからである。現在、藤井寺から焼山寺へ向う一般的な方法は、昔の遍路道とはまったく違う大きく迂回した車道である。しかし、今でも歩き遍路の人は大体が昔のこの澄禅さんが通った遍路道を通る(距離的にはもっとも近い)。私も何度かのチャレンジの後、焼山寺までの全行程を踏破した。
全距離は澄禅さんも書いている通り3里あまり12kmほどだがその道は高低差の大きい上り下りのある山道なのでかなりキツイ。下の藤井寺から焼山寺までの垂直行程図をご覧ください。
これを見ながら澄禅さんの日記を読むとその苦しみがよくわかる。藤井寺から一気に600m上るのを、「辛苦して大坂を登る」と書いている。この場所は今日の石堂権現あたりだろう。そして「峠と思しきところに至って見れば」、前よりもさらに急な坂がある。上の高低図を見ると焼山寺までにピークが2つ、谷は3つあるのがわかる。
地元の山仕事の人に聞くと、焼山寺まではまだ2里(8km)以上あるという。澄禅さんも一緒に同行している人も、「これだけ上ってきたのにまだかよ!」とガッカリ半分、くたびれ半分で、荷物も投げ出し、その場でヘタるように座り込み休憩を取った。澄禅さんはこの様子を次のように書いています。「自他ともに退屈して荷俵を道中に捨て置きて休息す」と。
現在でもこのあたりにちょうどよい休息所が設けられています。下は私がこの休息所(柳水庵)に2年前往復した時の動画です。
澄禅さんは柳水庵については書いていませんが、江戸時代後期にはこの柳水庵の場所に『柳の水』という一服所があったことはその絵図で確認されています。
しばらく休息をとり元気が回復したので、気を取り直し、前に立ちはだかる急坂を登り、峠に立って見ると向こうの山に寺の建物が見える。「やれ、うれしや、あれが焼山寺じゃ」とおもったのが、おそらく上の高低図でいう「一本杉庵」当たりではなかったでしょうか。
寺が見えればしめたもの、と考えますが、しかしはるか向こうの山の建物を見、それからそこまでに広がっている谷を見ると・・・・・「ふふふ深い!」、山道はその谷の底深く下りている。なんと、前以上に急な山道を下りて上らねばならない。内心、また気が萎えるのを感じた。ともかくもここで中食をとる。
下の動画はその一本杉庵まで私が往復した時の動画です。
腹ごしらえのあとその深谷を下りると、清流が流れていた。上の高低図でいうと左右内(そうち)である。現在でもかなり戸数のある部落があるが江戸時代も同じであろう。この清流でのどをうるおし、手足を冷やし、顔を洗いさっぱりする。生きかえるような心地になり、最後の急な上り坂に挑む。約3km上ってようよう焼山寺に着く。
焼山寺については次回ブログにつづく
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