澄禅さんの泊まったサンヂ村は現在鴨島町大字・山地にあり、藤井寺も同じ町内の森藤にある。歩いても20分ほどであろうか。澄禅さんの記述を見てみよう。
『廿六日早天ニ宿ヲ出、山田ヲ伝テ藤井寺ニ至ル』
とある。藤井寺までは指呼の間だが本日はそれから次の札所・焼山寺まで行かねばならない。藤井寺~焼山寺間は四国八十八ヶ寺巡礼道中の随一の難所である。今日一日がかりの道程になるだろう。そんな覚悟をもって早暁に出発したに違いない。道は田や畑の畦道のような近道をとった。今、藤井寺までの山裾の道は『山麓文化の道』となっている。
藤井寺参拝後の澄禅の日記を読んでみよう。
『本堂東向、本尊薬師如来。地景尤殊勝也。ニ王門モ朽ウセテ礎(本文では石偏に居)ノミ残リ。寺楼ノ跡、本堂ノ礎(本文では石偏に居)モ残テ所々ニ見タリ。今ノ堂ハ三間四面ノ草堂也。二天・二菩薩・十二神・二王ナドノ像、朽ル堂ノ隅ニ山ノ如クニ積置タリ。庭ノ傍ニ容膝斗ノ小庵在、其内ヨリ法師形ノ者一人出テ仏像修理ノ勧進ヲ云、各奉加ス。』
澄禅日記が書かれたのは17世紀の中ごろです。我が地元だから藤井寺のことはよく知っていますが、このあたりでは由緒深い大きな寺です。しかしこの当時のありさまはどうでしょうか?あまりもの荒廃ぶりに驚きます。
山門の仁王門は無くなっていて礎石のみが残っている。境内に入ると寺の棟も荒廃が進みお半壊状態。本堂も失せてしまってその跡にはそれを示す礎石が見えている。本尊をおまつりしているのは今は三間四方の草ぶきの仮の堂である。ひどいことには寺の諸仏。諸神像(二天・二菩薩・十二神・仁王像)などが朽ち果てたお堂などの隅にガラクタのように山積みになっている。正式な住持もいなかったに違いない。
なぜこのようになったのか、この荒廃はどこから来たのだろうか?藤井寺の縁起由来の案内板にはこうある。
天正年間とあるから戦国の最末期である。この後、秀吉によって統一政権ができるが、その戦国末の動乱の兵火に荒廃したとある。澄禅が藤井寺を訪れたのはその70年後であるから、まだ再建もままならず、往時の大伽藍の礎石や半壊した寺楼のあとが残っていたのだろう。
信心深いものならば涙するような寺の荒廃であるが、再建に向けての動きもあった。澄禅さんはこのようなことを書き留めている。
境内の庭の隅に膝を折ってようよう入れるような粗末な小屋があった。その中から僧侶のような格好をした一人が出てきて仏像修理や寺再建の勧進をしていた。参拝する人は各々分に応じて寄進した。澄禅さんも寄進したと思われる。
その後の藤井寺を見てみよう。元禄年間というから17世紀末である。澄禅さんの参拝から40年もたったころの藤井寺の絵図である。(四国遍礼霊場記)
今の藤井寺と比べ寺域が広い。左上から右下へは谷川が流れている。そして見ると仁王門は立派に再建されている。中には仁王さんの像も見える。本堂も草ぶきの粗末なものでなく正式な本堂である。また鐘撞き堂(鐘楼)も建っている。そのほか寺のいくつかの建物も見える。
澄禅さんが訪れてから40年の間に立派になったものである。例の坊主の勧進で再建されたのだろうか、確かに一助にはなったが莫大な費用をそれだけで賄えたとは思えない。最も大きいのは阿波藩主の寄進、上級武士や有力百姓の奉加であろう。
意外と知られていないが、澄禅の時代から元禄時代にかけては日本史上まれに見る高度成長時代であった。生産力は二倍になったといわれている。何がそんなに経済成長したのか?これは幕府や各藩による河川整備治水事業による新田開発の拡大である。河川の氾濫で江戸初期までは沖積平野はほとんどが湿地、荒地であったが、大規模な土木工事により河川が改修され水利も整えられた結果、水害のためどうしようもなかった沖積平野が美田に生まれ変わったのである。そして米の生産は倍増したといわれる。
このような経済成長を背景に由緒ある寺社の再建が行われる。この時代五代将軍綱吉は盛んに大寺院を建立したり、寺領を加増したりした。寺社がこんなに優遇されたのは後にも先にもなかったくらいである。これは綱吉の個人的な好みと思われがちだが、それはちょっと違う。実際に戦国以来荒廃していた寺院は多く、再建を願う人々は多かった。それがこの時代急激な経済成長によって資金調達が容易になった結果、再建出来るようになったのである。綱吉時代大寺院が多く建立されたのはこのことがあると指摘しておかなければならない。
もちろん阿波藩も同じであった。むしろ大河川吉野川の治水による新田開発は全国規模を上回っていたと思われる。藤井寺にもこの時期、藩主を始め有力者の寄進が相次ぎ寺は次第に立派になって行ったのである。
その後、18世紀末の絵図を見てみよう。(四国八十八ヶ寺名所図会より)
それでは現在の藤井寺の様子を見てみよう。
藤井寺に行く道、『山麓文化の道』
谷あいから流れる小川を遡ると藤井寺に行き当たる。
突き当りが仁王門である。
藤井寺の境内の様子
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