峠を下りてからの澄禅の日記を読んでみよう。
『(峠)爰ニテ休息シテ、又坂ヲ下リテ村里ノ中道ヲ経テ大道ニ出タリ。一里斗往テ日暮ケレバ、サンチ村ト云所ノ民屋ニ一宿ス。夫婦ノ者殊外情在テ終夜ノ饗応慇懃也、云々』
現在、峠を下りたところは公園になっている。左が公園、右の車道をまっすぐ行けば徳島から愛媛県まで縦貫している国道192号線に出る。 (ググルストリートビューより)
今なら国道192号線を突っ走れば11番札所藤井寺まで15分以内に着くが、時代は江戸時代!ひたすら歩かねばならない、また現在のようなまっすぐで舗装された国道なんかはない。しかし以前説明したように徳島藩は藩内に五街道を整備していた。現在の国道192号線に当たるのは伊予街道である。この時代の伊予街道と国道192号線はほとんど重なっていない。おおむね現在の旧道がこの伊予街道に当たると推定されるが、江戸の街道が現在地図上ですべて再現されているわけではない。まして伊予街道のような往還(道)ではなく当時あった村から村への比較的小さな道はわかっていないことが多い。
(ググルストリートビューより)
澄禅はんの朝からの旅日記を読んでいると、彼は道を「小道」、「中道」、「大道」、さらには畑中(の道)と呼んで区別しているのがわかる。我々は現在伊予(愛媛)までつづく当時の街道を「伊予街道」と呼んでいるが、澄禅がそのような言葉を使うとは考えられない。彼が言う「大道」が伊予街道と考えられる。そうすると峠を下りて村の道を通り、伊予街道(大道)に出たと読める。
伊予街道に出たあたりで太陽は西に沈もうとしていた。そうして一里ばかり歩くともうすっかり日は暮れてしまった。このあたりの村の名を聞くとサンチ村という。現在、我が住む町鴨島町に同じ地名を探すと「山地」(地元ではサンヂと濁るが)がある。歩いた距離からいうとここに間違いはあるまい。
澄禅の日記では民家に一泊させてもらったいきさつについては詳しくは書かれていない。日か暮れてしまったので、まったく何の縁もゆかりもない家に飛び込んで泊まらせてもらったようにも取れるが、そうではあるまい。澄禅は真言宗派の修行僧である。また徳島寺町にある大寺院・持明院の紹介状も持っている。それらの縁から各地の地元の有力者で宿泊を頼めそうなところはあらかじめピックアップしていたはずである。まったくの飛び込みで泊めてもらったのではないだろう。
日記を読むとかなり裕福でかつ信仰深い地元の百姓であったのがわかる。主人夫婦は情け深く、食事などのお接待もしてくれ何かにつけて親切であったと書かれている。
江戸時代、大体どこの藩でも民家に他国ものを止めることは原則禁止されていた。しかし、四国遍路に限っていえば、徳島藩は遍路に対し保護を加え、宿泊についても便宜を図っていた。巡礼のコースの中でいくつかの公に泊まることができる遍路屋(寺が多い)を決めていた。また報謝宿として民家が遍路を泊めることも認めていた。
今、鴨島町のサンヂ(村)に澄禅が泊まった民家を探すことはできない(文献はこの日記のみであるから)。先日、自転車でサンヂをうろうろしながらこのあたりを見て回ったが300年も昔のことでもちろんわからないし、当時のイメージさえわいてこなかった。しかしこのあたりにこんなものがあった。
お遍路さんのための無料宿泊所である。今も報謝宿、善根宿としてお遍路さんを泊めることは続いているのだ。
見ると二棟小屋が建っている。右のほうの小屋は「女性優先」と表札が掲げてあった。
ここでちょっと一般的な話をしましょう。江戸時代、お遍路さんは修業のためみんな野宿やそれに近いこと(お堂の軒を借りる)をしていたと思われがちだが、そんな人ばかりではない。これは今のお遍路さんと同じである。寝袋を抱えほとんど野宿する人もいれば、ホテルに泊まりながらベンツに乗ってまわる人もいる。この澄禅さんはこの後八十八カ寺を巡礼するがすべて民家、遍路屋(お遍路を泊める施設)、寺に泊まっている。
江戸時代の巡礼さんはどんなところに泊まったのだろうか。東海道五十三次絵図を元にイメージしてみた。
いくら野宿をするといっても本当の露天で寝るのはさすがにキツイ。やはり雨露をしのげる屋根の下がよい。現在でもJRの無人駅( JR四国の駅は夜ほとんど無人駅であり、鍵などはかけない)やバス停の小屋で寝る人がいる。江戸時代はそんなところはない代わりに「お堂」「お社」などがいたるところにあった。現在は防犯上そのようなところでも鍵がかかり泊まれないが、江戸時代は中に入り泊まることができた。
これはお堂で雨宿りしている図だが、このようなところで泊まったのだろう。雨宿りだが白い浄衣の巡礼はんが2人いる。虚無僧もいる。粗末なお堂だが露天で寝るよりははるかにまし。
下は木賃宿だが、遍路屋もこれとそう変わらなかったと思われる。ここも白衣(おいづる)を来た女性がいるから巡礼であろう。銭はほとんどいらない。木賃宿の場合は主人に煮炊き用の薪を贖うわずかな銭を払った。(そこから木賃やどという言葉が生まれた)
真ん中に囲炉裏があり大きな鍋か釜がかかっている。これはみんなが出し合った雑穀類を入れて雑炊を作っているのだろう。巡礼をしていて報謝を受け取るが(銭の場合よりも米や雑穀類をもらうことが多かった)それをこのようにして自分の食い扶持分を鍋釜に入れたのである。大鍋の中から各自よそって食べる。
もっと豪華なところに泊まることも出来た。ジェニさえ持っていればだけどね。ただし、四国遍路の旅では辺地が多く、そんないい宿は少なかった。それでも城下町や金毘羅宮のあるところでは贅沢な宿を選択することができた。このような宿を『旅籠』と言った。
風呂も付いている(左端の男は風呂上がりで手拭いを肩にかけている)、部屋も小奇麗だ。女中が脚付きの黒膳を運んできている。按摩もやってきた。そして夜、もっとお楽しみがある。右の布団部屋で女性二人が鏡を見ながら化粧に余念がない。これは宿付きあるいは宿に派遣されたいわゆる「飯盛り女」、性的サービスをします。
膳にどんな料理がのっているか知りたいですねちょっと見てみましょう。(県立博物館、江戸時代のハレの食事より)
まずは上級の旅籠の膳。酒もついて品数も多い。
もっと安い宿では、下の膳に菜(野菜の煮物など)が一品つくくらいのもの、一汁一菜だ。粗末だがそれでも夕食付というのは旅籠のいいところ。。(県立博物館、江戸時代の日常の食事より)
澄禅はんはこの日、親切な民家に泊まらせてもらい、饗応を受けた(饗応ですぞ!)とありますが、どんな食事だったんでしょうか。お風呂のお接待もあったんでしょうか。日記の様子からかなり満足のいくものだったと思われます。もしかして「一夜妻」の饗応も!う~~~~ん、(^_^;)、それはありえないわなぁ。
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