早朝、眉山ふもとの持明院を出発して、今、澄禅はんは一宮から藤井寺へ向かうべく峠道を登っている。峠に着いたときはこの日、初めて(日記では)休息したという記述が出てくる。峠の坂道を登って疲れたのか、峠の景色があまりよかったからか、まあ、どちらも理由としてはあるが、街道の峠では大体どの旅人も一服をしました。
炎熱のときなら汗を拭いたり、冷たい水で顔や首筋を洗えば気持ちがいいだろう。季節にかかわりなく喉も潤したい。熱いお茶などもほしい。しかし峠は谷川から遠く離れていて自然に流れる水や湧き出る水はない。そこで旅人の多い峠にはそんなサービスをする『茶屋』があった。茶だけでなく、団子、餅、あるいはその地方名物の食べ物、酒、肴、飯なども供した。
澄禅はんの日記にそんな記述があればよいが、修業中の僧侶であるからか、どんな状態で休息したか、茶屋のようなものはあったか、何を食べたかなどということは全くというほど書かれていない。だから推測する以外ないが、この(地蔵峠)峠も他の峠と同じように茶屋があったと思われる。
さて澄禅はんが休息したところはどんなところで、どんなもんを飲んで喰ったんやろ?視覚的に知りたいなぁ。そこで東海道五十三次の「坂の下」の茶屋を見てみると、
うんうん!いかにも峠の茶屋ゃゃゃゃ~、という雰囲気だ。眺めが良いところに建っている。旅人の中には絶景を眺めている人もいるし、その横の人はしゃがんで煙草をふかしている。椅子に座った旅人は茶を飲んだり、軽食を食べているものもいる。メニューも豊富なんでしょうか、梁からぶら下がっている紙はお品書きでしょうか。色々種類がありそうですね。
下からは坂を牛を引いて登ってきている人がいます。牛の背には大きな樽がいくつか乗せられている。何じゃろ?
「え?肥えタンゴ、って?」
う~~ん、肥えタンゴと見えないこともないですが、ここは標高の高い山の峠、峠を越えてまで肥えタンゴを運ぶのは少しおかしい。ワイが見るところ、峠の茶屋で使う水を運んでいるのだと思いますがね。ま、推測ですが。
こんな立派な峠の茶屋が阿波の地蔵峠にもあった・・・・・???、これはちょっと立派すぎますね。江戸末期の東海道の有名茶店では参考にならない。多分こんなのじゃなくもっと粗末な感じで・・・
そこで同じ五十三次図の中で簡略で粗末な茶屋を探すとありました。浜松かどっかその近くの街道の真ん中にこんな折り畳み移動式簡易茶屋がありました。
うわ~、さっきの茶屋と大違い、竹枠に斜めにムシロをかけただけの日覆い、それでも旅人は涼しい影で坐って休めますわなぁ、炉なんかはその辺の石を組み合わせて作ったもの、上から大きな薬缶が下がっているが結び付けられているのは横に生えている松の枝、婆さんが火を見ている。これが茶店ババアでしょう。これがもっとも粗末な茶屋です。
澄禅はんの休んだ峠にあったとすればおそらくこんな茶屋です。それでも婆さんに頼めば茶を入れてくれます。お遍路さんは特別にお接待で無料で提供されたかもしれませんが、ただし、その場合は「白湯」のみ、それでも一時の休息に白湯を頂けるのは有難いことでした。緑茶の場合は一文ほど茶代として払ったと思われます。見てわかるように軽食の提供もありません。大きな薬缶に沸いた湯、と茶葉、椅子とムシロさえあればできる茶屋です。近くの家の隠居のババアが小遣い稼ぎにやっているのでしょう。もしかすると前夜、婆さんが麦を石臼で回して団子の粉にし、それをこねて蒸籠で蒸した団子が置いてあったかもしれません(これも一個一文、串に5つさして五文で売る)
ワイやったら熱ぅ~て濃い茶を入れてもろうて、団子があれば食べますがな、澄禅はんはどないしたんでっしゃろ、我慢してお接待の「白湯」だけで一服したんやろか。
ここは澄禅はん、茶と団子を食べてすっかり元気回復し、峠から次の寺を目指して下りて行ったということにしておきましょう。
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