2019年5月21日火曜日

澄禅さんの切幡寺と法輪寺

20140924

 澄禅さんは四国上陸して最初に参拝したのが吉野川南岸にある寺寺であったため、霊山寺~切幡寺の1~10番までは四国巡礼の最後になった。つまり88番の大窪寺参詣のあと切幡寺から霊山寺をまわったのである。今日はその中から切幡寺と法輪寺について書きます。
 
 切幡寺と法輪寺の澄禅さんの記述は簡単である。
 
 『阿波切畑寺、本堂南向本尊三如来、二王門鐘楼在、寺ハ妻帯ノ山伏住持セリ。夫ゟ廿五町往テ法輪寺ニ至ル。近所ノ民屋ニ一宿ス。
 廿四日雨天故爰ニ逗留ス。
 廿五日宿ヲ出ツ。
 法輪寺、本尊三如来、堂舎寺院悉退転シテ少キ草堂ノミ在リ。夫ゟ十八町往テ熊谷寺ニ至ル。』
 
 澄禅さんの巡礼は17世紀の中ごろであったがこの時期に比較的近い元禄期の絵図を見てみよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  切幡寺は仁王門、鐘楼があると澄禅さんは書いているので上の左の絵図のような堂宇はすでにできていたのではないでしょうか。一番下の右端にある建物が仁王門でしょう。山域には神社造りの建物もいくつか見られます。上方には鎮守と書いた社がありますね。ここも神仏習合のお寺です。そのためかここは僧侶が住職ではなく、修験道の山伏が住持で妻帯していたと書かれています。
 
 法輪寺の方は相当粗末な寺だったようでことごとく失われ(建物が)、小さな茅葺のお堂に本尊を安置していたと罹れています。上右の地図をみても建物は少ないのがわかります。それでも澄禅さんの頃よりは建物も再建されていたのではないでしょうか。
 
 18世紀の末ごろになると両寺とも立派な建物が立ち並んでいます。(寛政期ころの図絵)
 
 切幡寺は今とほとんど変わらない姿になっています。右下の山門を入ると最初に谷川を渡り橋が架かっていますがこれは杖無し橋と呼ばれ今も同じ形で残っています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 また中腹にある石段の踊り場にあるお堂は今も経木所となっていてほぼこのような様子です。
 
 法輪寺の方も今現在の本堂と大師堂が回廊で結ばれているところなども当時とそっくりです。
 
 
 左が現在の本堂と大師堂です。
 
 
 
 
 
 

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