2019年4月4日木曜日

令和の出典を調べていて意外なことに気づいた

 元号が発表されたのが4月1日であった。私なども世の多くの人と同じで、一体どんな元号になるのだろうとワクワクしながら午前11時半から生中継を見守っていた。

 それで決まった新たな元号は『令和』、出典は万葉集とのことである。今回は国書が出典になるかもしれないと噂されていたので私なんかはやはりという感じでそれ以上の感想はなかったが、国書の専門家(日本史や国文学の学者)は多くある国書の中でも万葉集は意外だったと述べていた人がほとんどだった。

 昨日は図書館でその出典の万葉集の原書を読もうと行くとすでに今話題の本の「ホットコーナー」として万葉集関係の本を特設していた。十冊くらい並んでいた。原文は万葉集巻五の815の最初にある梅花の宴序文なのでさがすとすでにその巻のある本は貸出されていた。あとは万葉集の秀歌の抜粋とその解説、読み易く書かれた万葉集の概説、万葉集の舞台となった写真集などでそこには原文は載っていない。もしやと思い、古い本が収蔵されている地下書庫を検索すると小学館の古典全集の中に一冊だけ巻五の入っている原文が見つかったのでさっそく借りて読んでいる。

 その原文を読んでいて、私事だが意外でちょっと不思議なことを前日(元号発表の前だから3月31日)体験していたことがわかった。

 この日の午後、茶飲み友達とちょっと早かった花見をしたあと、まだ時間の余裕があるのでどこか近くに行こうか、となった。どこでも良かった。思いつかなかったら喫茶店でお茶でも飲みながらグダグダ話をしてもよかったのだが、ふと私が思いついて「そうだ、市の考古資料館へ行こう、確か阿波国府跡の出土品かなんか展示してあるから・・・」で、行ったのが考古資料館である。残念ながら国府跡の出土品の特別展は直前に終わっていて見られなかった(解説のパンフレットはあったのでもらった)。しかし常設資料は展示してあるのでそれを見ながらツレと話していた。

 話題は展示してある当時の庶民の家についてである。
 
 ツレ、「え~~~っ、奈良時代の庶民の家もまだ竪穴式なん?」

 私、「そうだよ、この時代、大多数を占めていた農民はまだ竪穴式住居だよ、ワイらが子どもの頃あった草ぶきの家の壁を無くし、屋根だけストンと落とした形、その代り土中を掘り下げ空間を確保していた。庶民の住居の歴史は、いわば地面に接していた屋根が次第に持ち上がってきて壁が上に伸びてくるのが庶民住居の変遷じゃないんかな。」

 ツレ、「以外やわ、ホンマに奈良時代こんなんやったん?」

 私、「万葉集の中に山上憶良の、貧窮問答歌っちゅうのがあり、その中に、確か、伏廬(ふせいお)の曲廬(まげいお)の云々、とあるが、それが竪穴式住居に近い庶民の家を表しているといわれとるから、間違いないわ」

 果たしてツレがその私の言った「山上憶良」「貧窮問答歌」「伏廬・曲廬」といった私の言葉を呑み込んでくれたかどうか、そして今覚えているかどうかわからないが、確かに私はその場でその言葉を言った。

 ここからが奇妙な「令和」との関連になるのだが、令和の出典は万葉集巻五である、昨日借りた万葉集を調べていてわかったのだがその典拠となる梅花の宴の序の少しあと、同じ巻五になんとその山上憶良の貧窮問答歌が入っているのである。そして令和の典拠となる梅花の序文を書いたのは主催者の大伴旅人と公式には言われているが実は山上憶良である。

 令和については国民、ほぼすべてといっていいほど予想を外し、出典も全く意外な万葉集(巻五)だった。もちろん私もいくつか予想はしていたが外れた。しかし前日、場所も万葉時代の阿波国の中心地にある考古資料館で、ツレとその万葉集巻五にある山上憶良の歌のお話をしていたのである。全く偶然には違いないが、考古資料館なんどには滅多にいかないし、また半ボケの70近いジジイと60代半ばのババアが万葉集巻五のある歌の話をするなんどはたまたまという以上にほとんどありえないことである。滅多にないことの例えとして『盲亀の浮木、優曇華の花」というのがあるが、まさにそんな感を強くしている。前日、「令和」に直接ぶち当たりはしなかったが、かすめてそのすぐ横を通っていたんだなぁ、と思う。

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