2022年11月3日木曜日

我が郷土の和製インディー・ジョーンズ インディも帝国も若かった


 さて、予告通り和製インディー・ジョーンズの冒険・研究の紹介をしたいと思います。10月29日、西原駅を降りて向かった先はコスモス街道の途中にあった「阿波公方・民俗資料館」です。インディと何の関係が、と思われるでしょう、何の関係もありません。そこの玄関フロアの一角を借りて和製インディーの写真展と調査研究のパネル展示があるのです。

 和製インディーとは考古学者にして民族学者(現代では文化人類学と言った方がいいかも知れない)の鳥居龍蔵博士です( 1870~1953年)、彼については徳島県人としては名前はよく知られています。しかし案外彼の業績については知られていないのではないでしょうか。文化の森にある博物館と隣り合っている鳥居龍蔵記念館をごらんになった方は彼の業績も分かっていると思うのですが、博物館を見てもこちらの方は敬遠して見ない人が多いようです。

 博物館の文化展示は徳島の歴史、徳島の民俗文化などをジヨラマや立体展示などにしているため興味がある人が多く、見ていて面白いのですが、鳥居龍蔵館の方はアジアの少数民族の民俗・風習、そして中国北方を含む中央アジア史の研究展示のため、馴染みが薄く、興味もわかなくて入場者も少ないのが実態ではないでしょうか。

 私はこのような分野に興味があるため、一度ならず何度も訪れお勉強させてもらいました。うれしいことに鳥居龍蔵記念館は写真撮影可なので、自分の勉強の資料のために写真を撮らせてもらった。そしてそれをもとに今まで何回かブログを書きました。彼は東アジア山岳部・北東アジア(樺太・千島・シベリアも含む)の各民族の文化人類学的調査研究も豊富で質も高いが、中国北方に連なる中央アジア史の一環としてとらえられる遊牧国家「遼」、その中心民族・契丹族などの考古学的成果も多い。記念館ではその立体展示も行っている。
 
 そして先日、上記の展示会のポスターをみて、彼のもう一つの成果である文化人類学的調査研究の「台湾の少数民族」のお勉強をさせてもらおうと那賀川町の民俗資料館に足を運んだのである。最初、展覧会のポスターを見た時、この顔が目に飛び込んできた。「これ誰やろか」というのが第一印象であった。そしてすぐ文字に目が行くと鳥居龍蔵さんとわかって驚いた。彼の顔の方は鳥居龍蔵記念館でなんども写真を見て知っていたがそれは中年から老年の写真であった。だから私にとってこのポスターの鳥居龍蔵はまったく見慣れぬ青年としかみえない。使われているのは彼が26才のときの写真である。なかなか野性味のあふれる、魅力的な青年である。たしかにポスターをよく見ると「鳥居龍蔵」の名の前に「青年」とある。なるほど青年のときの鳥居龍蔵はこんな顔をしていたんだ。19世紀の日本人の顔としてはイケメンなんじゃないだろうか。

 我々は過去の偉人をみるときすでに定まった地位を見がちである。鳥居龍蔵、文学博士にして東京帝大教授である。しかし徳島県人は知っていると思うが彼は正式な卒業は小学校のみであり、あとは独学とその道の学者・先生に教えを受け専門教育をものにしている。そして強い意志のもとに「東大の人類学教室」に入り、雑用などこなしながら標本整理をとおしてさらに知識を得、研究のノウハウを身につけ、とうとう東大人類学教室の正式メンバーとなっている。独学努力の立志伝のような人である。

 私らが小学校のとき偉人伝の読み本としては外国人では「キューリ夫人」、そして日本人では「野口英世」が定番で、半ば強制的に読まされた。野口はハンディを負いながら、努力でそれを克服し医学を勉強し、アメリカへ渡り世界的な病理学者に・・云々、であるが、近年の研究ではその偉人伝像はかなり誇張があることが分かってきて、大幅に割り引いて見なければならなくなってきている(アメリカの研究者の中には彼はホラふきだと酷評する意見もある)。それに比べるとわが鳥居龍蔵の方は、今も十分価値のある論文、資料、考古遺物、アジア各地の民族の写真、録音などを残しているにもかかわらず、野口と比べてなぜ全国的な偉人伝として知られていないのか不思議に思うほどである。

 閑話休題(それはさておき) 今日のブログの題で、映画でおなじみのインディ(インディー・ジョーンズ)と若き鳥居龍蔵をなぜ重ねるのか説明しようと思う。映画『インディー・ジョーンズ』は、主に秘境を舞台としたハラハラドキドキの「冒険活劇」です。大変ヒットした作品でテレビでもなんども再放送されているので映画の細かい筋は忘れていても、インディがどのようなキャラかはだいたい分かっているのではないでしょうか。

 インディの本来の職業は大学の考古学者(もちろん文化人類学も専門である)で、学生を前に講義を行っています。しかし鳥居龍蔵さんもそうであったように考古学者は大学の研究室に閉じこもっていては研究は出来ません。対象となる現地に出向いて調査をしなければなりません。発掘作業などは手と足を使う、まるで土木作業員のようなアクティブな活動となります。このような遺跡・遺物の発掘、現地調査などを「フィールドワーク」と呼んでいます。このようなフィールドワークは現地での地道な活動の積み重ねで、そうそう血湧き肉躍る遺物・遺跡にブチ当たるわけではありません。発掘などは大部分は退屈な作業なのです。かなりの健脚で壮健な体がなければなかなか難しい仕事です。そして文化人類学などの調査や発掘作業は遠い外国の、ジャングル、高山、砂漠など不便なところが多く、健康を維持するのも大変です。期間も何ヶ月も渡ります。その合間に、研究を論文にまとめ公表したり、また学生に講義もしなければなりません。かなりハードな仕事になります。

 しかし報われる時もあります。例えばツタンカーメン級の墓を発見し、発掘したときなどです。歴史の知見が新しく加えられるばかりではありません。墓の遺物は(ツタンカーメン級ともなれば)、国宝くらいの価値のあるものとなり、博物館に収められれば超一級の呼び物になります。まぁそんな幸運な考古学者は極めて少ないですが。しかしフィクションの映画となれば別で、インディーはなんども幸運に恵まれます。映画の出だしから新しい墓、あるいはそれに類するものの発掘から始まり、値のつけようもない高価な遺物がそこから発見され、それをめぐっての悪人との対決となるのがお決まりのパターンです。

 鳥居龍蔵さんもインディと同じように価値のある墓の発掘調査を行いました。そして貴重な遺物、史料を日本にもたらし、それによって日本の北方アジア・中央アジア史学が大いに進歩したのです。インディとの違いは悪人との対決がなかったことくらいでしょうか。鳥居さんの、その墳墓の発掘調査の成果は文化の森の彼の記念館に立体展示されています。百聞は一見に如かず、8年前に私が撮ったその動画をご覧くださればその墓がどんなものか大まかに分かると思いますので下に貼り付けて置きます。


 「我が郷土の和製インディー・ジョーンズ」鳥居龍蔵さんをこのようなネーミングで呼ぶのは、私が勝手に名付けたものです。しかし以上のような説明からまったく根拠のないものではないと思うのですがどうでしょうか。またビジュアルの点からでも、映画のインディは冒険活劇のスターとして見栄えの良い「ハリソン・フォード」が演じています。そしてわが鳥居龍蔵さんの写真をもう一度見て見ましょう。どうでしょうか、見た目も和製インディー・ジョーンズとして推奨されてもいいような気がするのですが私の贔屓が過ぎるのでしょうか。



 鳥居龍蔵さんは23歳の時に東大の文化人類学教室の正式メンバーとなり、25歳の時、初めて外地の遼東半島で調査研究のフィールドワークを行い、以後東アジア各地に足を延ばします。そして上記の写真は台湾へいった26歳のときのものです。ここに彼は文化人類学的調査のため派遣されたのです。西暦でいうと1896年のことです。実はこの前年、日本は日清戦争に勝利し、初めての植民地を獲得したのです。「大日本帝国」の形がととのったのは憲法発布の年と見ていいですから1889年です。形は帝国となりましたが、当時の西洋の帝国、代表的なのは「大英帝国」ですが、のように植民地を所有し、多民族を統治している名実ともの「帝国」ではありませんでした。しかしその7年後の日清戦争の勝利により、初めて台湾を植民地として領有し、多くの(少数民族ではあるが)民族を抱え込むことになり、大日本帝国は西欧の帝国と同じような体裁になったのです。

 鳥居さんが台湾に派遣されたのは名実ともに帝国になった一年後の1896年、鳥居さん26歳。若い帝国(大日本帝国)は初めて領有する植民地を統治するとともに、早急にその地理そして台湾には多くの(少数)民族が存在しているが、その民族の実態を知らねばならない。鳥居さんの専門とする「文化人類学」(当時は単なる人類学とよばれた)はその「帝国」のために必要な学問でもあった。

 19世紀の人類学、民族学(現代では文化人類学の範疇に入る)はそのため「帝国のための学問」の要素が強い、つまり統治する帝国植民地に暮らす民族をまず知ること、さらには(かなり帝国的野心を隠しながら世界に散らばる未開・非領有地に)強力な遠征隊を送り出し、他の植民地帝国に遅れてはならじと調査しその成果をものにするのである。そしてこれが最も、今となっては問題なのであるが、そこに「未開」な民族、あるいは人種という概念を持ち込み、統治帝国の我々は、それらの「未開」民族・人種を文明化させねばならない義務がある、と考えるのである、そのような思想のもとに人種学・民族学を構成されていたのである。19世紀末のこのような学問を現在からみると批判を免れない。「白人優位を初めから取り込んだ人種学・民族学」、「上から目線の学問」、「帝国の御用学問」と言われても仕方のないものがあった。

 鳥居龍蔵さんも19世紀末に人種学・民族学をヨーロッパ式のアプローチによって学んだ人である。当時の時代にあってはそのような見方に浸っていたのではないかとも思われる。しかし、鳥居龍蔵さんを初め日本の学者は白人ではなく、白人が一段劣っているとみなしていた黄色人種である。白人優位を暗に示唆するような民族学・人種学に疑問を持っていただろう。だから鳥居龍蔵さんが人種・民族的優位を白人に代わり日本人を持ってきたとは思いたくない。しかし少なくとも、文明化した植民帝国日本が、彼らを教化(文字を教え、保健衛生を改善するなど)すべきであると考えていたとしても不思議ではない。現代でも台湾統治はそのようなプラス面があったと考える人が多い。鳥居さんも19世紀末の帝国主義時代の人種・民族学の制約から免れていないのではなかろうか。しかしだからといって彼がアジア各地でおこなったフィールドワークの成果は毀損されることはない。

台湾の少数民族とその展示パネル


 まず展示パネルを見てもらう前に、ちょっと台湾の少数民族についてお話ししたいと思います。現在の台湾国の人々は中国大陸からの移民の子孫が大半ですが現在も主に山岳地帯にはネイティブ(原住民)がいます。日本統治時代にはその民族は7~9族に別けられていたのですが、現在では16族が認定されているようです。左の図は日本統治時代の九族に分けた各族の分布地図です。 

 大日本帝国誕生以前、つまり明治以前の日本人が接していたネイティブ(原住民族)はアイヌ人のみで、アイヌとの接触は奈良朝から記録には表れるくらい古く、交易を通じた接触も(江戸期は松前藩を通し)密で、良い意味でも悪い意味でも、お互い相手のことをよく知っていました。しかし台湾の領有した明治28年(1895年)、日本人は台湾の少数民族についてはほとんど知りませんでした。だから鳥居さんのような人が調査研究に向かったのです。

 今は、台湾は(アンケートの比率から言うと)世界一「親日度」の高い国です。お返し、ということでもあるまいが、やはり魚心あれば水心で、日本でももっとも好感度の高い国が台湾となっています。私もどの国の人よりも台湾人が大好きです。しかし日本は1895年から半世紀間台湾を植民地支配したのを忘れてはならないと思います。「近代化」というモノ、制度、文物を与えたではないかと肯定的な評価も可能かも知れませんが、少数民族にとってみたら、自分のあずかり知らぬところで清朝と日本のあいだで、いつの間にかその「支配・統治」とやらが譲渡され、統治者としていろいろなものを一方的に押しつけられることになったのですから、いらぬお世話でしょう。

 以前『セディック・バレ』という台湾映画を見たことがあります。一部二部にわたる3時間以上の大作です。これは昭和5年に起きたセディック族による反乱(日本から見たら「霧社騒動」を描いたものです。山岳地帯の彼ら少数民族の土地にまで細かく警官・派出所を配置し、統治の実をあげるため、高圧的な統治や、教育による同化が進められました。その結果、伝統的な文化・習俗が消えてしまうという危機感が、セディック族を反乱に立ち上がらせたのでした。反乱勃発とともに子ども婦女子を含めた多くの日本人が殺されましたが、日本の圧倒的な軍事力により圧伏され、日本人死者の何倍もの原住民が殺されました。それを日本人は反乱と呼ばず「霧社事件」と呼んでいるのです。映画『セディック・バレ』はその反乱を原住民の側から描いたものです。

 山岳民族は独立不羈で尚武(武を尊ぶ)の風が強い、と当時の日本人も認識していました。日本で言えば中世の鎌倉武士のようなものでしょうか。山岳民族の男たちは刀を振り回し、戦いで敵の首を狩る、というのですから、まさに日本中世の武士の戦いのやり方みたいですね。そのようなことも分かっていながら、植民地を領有したばかりの日本は、経験が浅く、大英帝国のように洗練された統治(小ずるく統治の実をあげる)をする術も知らず、強圧的な統治になりがちであった。日本の方は蛮族を文明化させてやるとの思い込みで、彼らの文化風習、そして人格まで否定するような行為が度重なり、我慢できずに蜂起したものであろうと思われます。

 もし、統治者・日本と被統治者・山岳民族という関係でなく、対等な付き合いならば、先にも行ったように、彼らは独立不羈の精神が強く、中世の日本の武士のような尚武の心を持っているし、また同族同士では他者を思いやる心も強い。そんなことから日本人と山岳民族は本来は親和性が高かったと思われるのに残念である。これは対等な国同士となった今、山岳民族を含む台湾人が世界一の親日度であることを見ても分かる。

 鳥居龍蔵さんは帝国から派遣された大学の調査員という関係上、上から目線の立場もあったであろうが、現地での長期間のフィールドワークでは、彼らと生活を共にし、友好的でお互いに思いやりのある平等な態度が貫けたのではなかろうかと信じている。

 以下、展示パネルの一部を紹介して、私の簡単な感想を書き加えておきます。

台湾のフィールドワーク(現地調査)中の鳥居さんと原住民、友好的雰囲気が伝わって来そう。若き鳥居さん(26歳)やっぱり男前やわ、いよっ!「和製インディ!カッコイイ」

 山岳民族の集合写真と少年の写真、確かに尚武の民族らしい顔をしている。少年なんか日本の鎧兜を着せればりりしい若武者で通りそう。

これはアミ族の写真、比較的早く日本の植民統治に順化した。左の夫婦は着ている服も明治大正時代の日本の庶民と変わらぬ格好をしている。

こちらはタイヤル族、少数民族は二重まぶた、お目々ぱっちり、濃ゆい顔が多い。われら現代日本人の中にもこのような顔は結構見られる。原始日本人の形成過程で彼らと共通の遺伝子が南方から流れ込んできたのではないか。このような遺伝的形質は美男美女を生みやすい。

彼は帝国からの委嘱をうけて台湾各地の少数民族を調査した。下が彼のそのときの足跡である(1枚目)。この中で私が注目したのは台湾の遙か南東に浮かぶ孤島「紅頭嶼(こうとうしょ)」である(2枚目)。


ここの孤島に「ヤミ族」という民族が暮らしている(上のアミ族とは違う)。この少数民族は漁が主な生計手段である。昔も今も「トビウオ漁」が有名である。鳥居さんがその船を写真に残している。
これを見ると舳先、艫とも上にぐっと立ち上がっている。大きさは違うが、北欧バイキングの船とよく似ている。バイキングの船もそうだったが波を切って進む外洋航海に向いている船である。実際にヒリピン当たりまで遠征するそうだ。漁師民族ではあるけれども、海洋民族でもある。
 むかし、太平洋に広がる民族はマヤ、インカの南米民族が船で航海し、ポリネシアなどの太平洋諸島に広がったという説を唱えた北欧の学者がいて、実際に自分でコンコンチキ号とか言う船を作って航海して証明しようとした。しかしそのコンコンチキ号より、このヤミ族の船のほうがず~~~っと外洋航海に向いている。
 ここで、太平洋諸島に暮らす民族の来歴が出てきたのでそれについてちょっと話したいと思う。過去、いろんな人がその来歴について説をとなえた。おもっしょいところでは太平洋に沈んだ古代文明の「ムー大陸の民」の生き残りだというのがあった。そして北欧の学者などは先のように南米からという説をとなえた。現在ではどちらもあり得ないと思われている。いまは太平洋の東から来たのではなく、西のほう(東南アジア、ニュギニア、など)のどこかから太い幹の流れとして海洋民族が太平洋へ押し出し、それが枝葉として太平洋(ミクロネシア、メラネシア、ポリネシア)に散らばったと思われている。
 そしてその中で有力な説はこの台湾である。ここから根幹の幹の太い流れが枝葉となって太平洋に広がったのではないかというのである。そうなるとこの台湾の紅頭嶼(こうとうしょ)」は台湾から太平洋へ乗り出すまさに入り口、この島の原住民はミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの人々のご先祖さまに一番近い人となる。
台湾大好き、台湾少数民族大好きの私としては心情的にもっとも支持できる説である。

下のヤミ族の男性、見た時、まずこの肢体に驚いた。なんと足が長く、そしてスリムなのだろう。長距離の航海に乗り出す海洋民族の人種的特性なのか。この人々がミクロネシア、メラネシア、ポリネシアのご先祖の直系の子孫かも知れないのだ。

 この後、わが大日本帝国の領土の拡大とともに鳥居龍蔵さんは帝国が領有した樺太・千島、朝鮮、そして帝国の勢力圏となった満州、モンゴルなどに足跡を延ばす。その後、帝国は1920年にはミクロネシア(太平洋諸島の一部)をも領有する。北から南まで大日本帝国は多くの多民族を抱え込む、文字通りの「大帝国」となる。

 私がみるところ領域内の多くの多民族のなかでは、南方系の台湾やミクロネシアの民族と日本人とは、もっとも親和性が高い気がする。今でもそれらの国々(ミクロネシアは今は3つの国に別れている)の人々の親日度が高いのをみるとそう思える。それに比べどこの国とはいわないが千年恨みを忘れないといってなにかと文句をいうどっかの国とは違っている。

 もちろん植民地支配した贖罪は持たねばならないが、台湾を含めた南方系の植民地の国にたいしては、親日度にかまけて日本の贖罪意識が薄いのはちょっと問題である。それにくらべると北西系の植民地の国に対しては、大声で反日をいうからか、過度に贖罪意識を持ちすぎる気がする。

 鳥居はんが台湾で活躍した時の若い帝国は、力強く成長したくましい青年となるが、壮年期の56歳にして(明治憲法発布からかぞえる)帝国は崩壊し本土は焼け野原となってしまった。しかし鳥居はんは帝国が死んだ後も生き、調査研究をつづけた。

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