2022年11月9日水曜日

秋の夜空

  ♪~みあげてごらん、夜の星を~♪という歌が昔はやったが昨夜はかなりの人が夜空を見上げ天体ショーを楽しんだのではないか。

 星々を見ていると若いときは心が洗われるような感じがした。壮年になっても時たま夜空の星を見上げると、明確には言えないが、いうとしたら「悠久」というのが近いのかなぁ、そんなおおらかな感じを受けて、この地上のコセコセしたことが価値のないくだらないことに思えてきて、なにかすっきりしたものだ。

 そして余命が短くなった老年になっても、夜空の星々を見上げるといまだに浮世離れしたことを考える、俗塵にみちた世を離れるような気持にさせるのは壮年の時と変わらないが、文字通り、俗世を離れる時が近づくジジイになった今、天体をみると、こんなことを思う。

 生きるということは、楽しみもあり、価値も見いだせる、しかし老年になり多病を患い心身の苦しみや、癒せない疲れ、がドッとくるとき、「死」が遠からぬことを感じる。お釈迦様は老骨にむち打ち、なんとか頑張って生活していることを、壊れかけ寸前の荷車に例え、ガタピシ、よろめきながら、分解寸前の荷車を動かしているようだ、といった。

 自然にあるものは必ず「推移し変化する」、風化といってもいいし、浸食といってもいいし、また小難しく「エントロピー」の増大といってもいい。しかし「生命」にしても「荷車」にしても、その自然の流れには従わず、むしろ逆らっている。それは下に落ちようとしているモノを無理に引き留め上にあげるための行為とも言える。「ヒトの個」はずっと維持されなければならないし、「荷車」もその用途を続けねばならない。それが自然に落ちる動きに逆らって上に引き上げることを繰り返すことである。だがそれはある瞬間、突然、止まる。「死」であり、(荷車の場合は)「修理不能の破壊」である。遅かれ早かれそれは必ず来る。

 人の生命も荷車も、自然に逆らう形で、その営みを続けてきたが、その時点で(死・破壊)、自然と一体化する。すなわち、以後は自然と同じように推移する、風化であり、浸食であり、ともかく自然にまかせて物質の分解が進む。やがて、その物質は諸要素まで分解され、結局「地球」という天体の一部に合体してしまう。死が間近い老年になって夜空を見上げると

 『天体は私が死を通過して向かう究極の場所なのだ。』

 と思ってしまう。


 昨夜の天体ショーが終わった後も、まだ夜空の星に関心を持って見上げる人がどれだけいるだろうか。これからの秋の夜空は、月が欠るとともに暗くなって、晩秋の星座が目立ってくる。しかし、四季の中でも秋の星座は、明るい星々が少なく、とても寂しい。秋の季節にふさわしいといえばそうなのかとも思う。

 遥か昔、高校生のとき深夜の勉強の息抜きで、庭に出て秋の夜空を見上げたことがあった。少し星座に関心を持ち、あれは「○○の星座」と指さしながら星座表など参考に確認したものだ。

 森々と更け行く夜、空を見上げながら、遥か遠くで、多量の水が落ちているような、かそけき音がする。ちょうど上には「宝瓶宮」(水がめ座)が出ている。もしや、あそこから落ちる水の音か?とでも錯覚しそうな異次元的な状況だったが、冷静に考えると、澄み渡った秋の大気が吉野川の堰の音をここまで響かせているのであった。

秋の夜空

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