大正時代、このあたりは南斎田といった。河口の砂洲が作った土地で、いたるところに葦が生い茂る葦原であったが、人々はこのあたりに群生しているヨシキリの鳴き声から『ケケス原』と呼んでいた。そんなところは当然、農業はできない。しかしそんな自然条件を生かしたのが江戸時代からの「塩浜」、入浜式塩田であった。
いま昭和町を歩くと、住宅地や商店が密集しており、100年前の葦原と塩田などがあったという証拠などはどこを探してもない。ただ昭和町7丁目に塩竈神社がある。この神社は製塩の神様である。それだけが唯一、むかしこのあたりに塩田があったことを偲ばせるものである。
塩竈神社(昭和町7丁目)
当時、この昭和町(当時は斎田、富田浦と言ったが)を南北に横断する運河があった。小通川運河という。この運河は勝浦川を利用した船運の徳島市内への便宜を図るものとして開削された。勝浦川から下った船は、小通川運河を通ることにより大回りせずに新町川へ入れるのである。新町川から寺島川や佐古川、田宮川を上ると、徳島市内の商業工業の重要な拠点にまで船で運送できたのである。
当時の運河の地図(勝浦川から新町川へ入るルート、以前ブログで紹介した鳴滝の氷室に蓄えられた天然氷も、真夏、このルートで運ばれたのであろう、冬には勝浦ミカンか、逆に徳島から勝浦川を遡っていろいろな商品も上流地域へ運ばれた。)
その小通川運河は今はほとんど埋めたてられてしまっているが一部にその跡が残っている。下はその小通川運河の入り口付近を撮影したものである。
0 件のコメント:
コメントを投稿