2012年3月9日金曜日

やまさん中世を歩く その10 一所懸命の人、漂泊の人


 人はそもそも定住しなければならないのか?生きていくうえで雨露をしのぐ何らかの寝床、あるいはくつろぐ場所は必要だが、『住所』というものは必要か?

 などといえばアナーキーな破壊主義者として指弾されかねませんね。

 この日本国は(どこの国でも同じだが)、人は住所を持つことを前提として民政を行っている。

 「わしゃそんなものいらん!」

 といってもそれは許されない。本籍、住居は定めることが前提で、どこにも住居を定めなかったら
『住所不定』となって生きていけないほどの(健康保険は使えない、いろんな免許、申請もできない)不利益を被る。まあその覚悟があるなら特に罰する法律はないようなので、住民登録もせず、住居も定めず、漂泊の生活をお送りなさいと言いたいが、そんな人は指名手配の人か、誰かから逃げてる人か、失踪した人か、ごくごく一部の四国巡礼のお辺土さん(遍路)にいるくらいだろう。

 しかし、これからやまさんと旅をする中世には、定住しない「漂泊の人」がたくさんいた。
 
 ただ今より漂泊の人いたというだけで、もちろん定住の人が多数であった。

 中世は定住する人も大変である。何せ中央権力が弱く、各地に権力が分散といえば聞こえがいいが、その実、地方などは無政府状態といってもよい。そんなところで土地や家屋敷を持っていると気が休まらない。無法状態で、武力がすべてを解決する手段となるような社会である。弱いものは強いものにたちまちのうちに土地、家など奪われてしまう。

 奪われないためには自ら武装して守るか、より有力なものに保護を求め、土地、家を保証してもらう代わりに見返りに土地の収穫物や、労働力あるいは兵力を提供するしかなかった。
 いま旅をしている中世はそんな社会であった。

 いずれにしても土地を守るのは命懸けである。現代の言葉に「一生懸命」とあるが、この時代は自分の土地の「一所」に命を懸けた「一所懸命」だったのである。(一生懸命はこれから由来しているらしい)
 その自ら武装し一所懸命な人がこの時代の武士であった。

 それではまずその一所懸命な武士の家(館)を訪問してみましょう。

 前のブログで師匠と風炉に入って語り合った同じ年、同じ九州の筑前の武士の館を一遍は訪問します。

 アメリカの西部開拓のフロンティアの砦みたいですね。門の上には物見やぐら、門や塀のまわりには家来(家の子・郎党)がいますね。
 この屋の男はみんな戦闘集団といってもいいですね。
 庭と門前に一遍さんが2人いますが絵巻の例の異時同図法です。
 拡大してみましょう。まず門と物見櫓。
 邸内には鷹や犬が飼われている。
 戦闘は当然良い馬を必要とする。馬小屋を見る。大事にされているのがわかる。床を見てください。なんと、板敷ですよ。庶民が土間に藁を敷いてるのがこの時代。庶民より馬が上?そう、そのとおり。

 次は定住せず漂泊した人々。といっても自由でいいなあ、などと思わないでください。土地を持たないため農業生産もできない。定住しないため、生活の糧を得る方法は限られています。

 一つは遊芸で生きる方法、このような人々。これは琵琶法師。あちらこちらを渡り歩いた。

 そして具体的には何をして糧を得ていたかわからぬが(いわゆる乞食かもしれない)、やはりあちらこちらをさ迷い歩いた人、鞭で武士に追い払われている。2枚続き

 そして打ち捨てられた病人、不具者、あるいは貧困から定住を離れ放浪・漂泊する人、施しによって糧を得ていたのであろうか、極めて粗末な小屋のようなものはあるが、あちらこちらに場所を移して生活をしていたと思われる。2枚続き
 恵んでくれと、椀を差し出している男が見える。


 つづく

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

先日、蟻の生態の番組を見ましたが、人間とあまり変わらないような気がしました。弱肉強食、縄張り争い、自然淘汰は生物の本質なのかな?であれば今の社会主義、共産主義は亡びる運命なんでしょうね。弱者救済は正義なのでしょうか?(^_^)

yamasan さんのコメント...

この時代に限って話をします。

 弱肉強食、縄張り争い、がこの時代の社会システム、「封建制度」をもたらしたのではないでしょうか。
 弱者も生きていく道はあります。前述したように強者に土地を見返りをもとに保護してもらう。そして有力なものが地方に割拠する状態で、その中からさらに有力者を求め、封建的主従関係が成立する。
 これが鎌倉幕府・御家人制度になります。
 弱肉強食、縄張り争い、は結局、ある秩序を生み出すもととなりますね。

 でも土地に執着せず、漂泊する人はこの支配秩序には入りません。その意味で気楽なようですが、実態は上図のように、いわゆる「乞食。非人。・・」などで、まさに最下層の「弱者」として生きねばなりません。

 さてそこで「弱者救済」ですが、宗教施設が主にやっていたと思います。またこういう人は「聖所」(寺、神社)に多く集まります。参詣人の「慈悲・喜捨」に期待できるからです。
 定住する人々もこのような弱者に対し「聖所」などにおいては、進んでモノを与えたと思います。

 この時代、弱者救済は正義というより仏道や慈悲心などにもとづいたものであったような気がします。