2012年3月26日月曜日

一遍さまとの旅を終えての雑感


 気ままな歴史妄想ブログをお読みくださってありがとうございました。何度も歴史妄想と断っているので、このすべてをまさか鵜呑みにする人はあるまいと思います。
 このブログに登場する全国各地の風景、人物は国宝『一遍上人絵伝』の美術全集の一巻(定価6800円)より引用したものです。
 面白おかしく私が絵に勝手に細工をくわえております。ちょっと申し訳ない気もしますが、もう700年以上も前の絵師「円伊」が描いたもので、いまさら著作権、肖像権もないだろうと断りなく使わせてもらいました。

 私のような歴史妄想好き、勝手にその時代へ空想を駆使し、ぶっ飛んでいくものにとってこの絵巻はもう堪えられない価値を有しております。
 普通、宗教の祖師の絵伝などというと、霊験譚、奇跡のオンパレード、風景、他の人々の描写もそこそこに、やたらと祖師・聖人を中心に大きく厚かましく描くものですが、この絵巻ではそういうことはありません。

 一遍さんはどの場面でも小さく、中には大勢の人の中から

 「え~~っと、どれが一遍さん?わかれへんわ」

 探すのに苦労するような始末です。

 また、人物、風俗、建物、この時代の特徴が非常によくわかる描写になっております。それに出てくる人物は庶民が多く、それ以下の乞食、犬神人、非人・・・などの最下層の生態も余すところなく描いております。

 本当に妄想ブログ「やまさん中世の旅」にはもってこいのネタ本でありました。

 一緒に旅をさせてもらった一遍さんは西暦1289年8月23日に亡くなっております。前のブログで紹介したように一遍さん自身は、自分の教えは一代限り、組織を作り、戒律を作り、教団を立ち上げ宗派にするなどとは考えていませんでした。ただ一遍さんが亡くなった後、教えを慕う教団として存在して後には『時宗』として宗派に成長します。

 私はその時宗には全く興味がありませんが、自分一代限りと言い放ち、ひとえに弥陀の救いを信じて、人を救おうと全国を捨て聖として歩いた一遍さんには、限りない尊敬の念を抱きます。

 もし、今、一遍さんが私の前にいらっしゃったら、教えを乞い、一緒に遊行の旅にでかけるかもしれません。

 仏教の本来の(インド直伝の仏教の考え)教えは並みの人間には実践の難しいものです。我ら凡夫は『貪り』、『瞋り』(いかり)、『愚かさ』のような悟りを妨げる煩悩をどうしても払しょくできません。それを払しょくし悟りを得るためには修業をしなければならないし、悟りを得た後も「実践」をしなければなりません。
 はたしてそのようなことが中世の庶民、下層民にできますでしょうか。これは今に生きるこの私とて同じことです。

 では庶民下層民凡夫は救われないのでしょうか?

 「いいや、必ず、お救い下さるぞ!」

 と自信を持って行動実践されたのがこの一遍様でした。中世の時代においてこのような一遍様はどれほど輝く存在であられたことでしょう。

 あの世のことは知らず、現世において一遍様によって苦しみが消滅、いや消滅しないまでも軽減された方が多くいたであろうことは確かです。まことにこの時代にあって、ありがたいお方でありました。

 最後に一遍さん、そして中世に生きた人々に捧げる意味で

 『南無阿弥陀仏』、『南無阿弥陀仏』、『南無阿弥陀仏』、三遍唱えて今日のブログを終わりたいと思います。

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

『南無阿弥陀仏』(ナム・アミータ・ブッディ)いい言葉ですね。心にしみわたります。それ以上の言葉はいらないですね。(^.^)

yamasan さんのコメント...

このナム・アミータ・ブッディ、のサンスクリット語は印欧語族の言語で何と英語と極めて近い言葉なのです。
 極東の中世日本での称名が印欧語から来てるとは驚きですね。

 ちなみにナムは英語のname、アミータのアは否定、ミータは、英語のmeasure、meter、計量、計る、という意味で合わせると、計りがたいモノ(偉大で推し量れないくらい・・という意味でしょうか)
 ということは、広大無辺で推し量れない偉大な名前のブッダとなりますね。

 この話、語源学の本のコラムで読んで頭に残っています。