2011年11月29日火曜日

江戸の湯屋 式亭三馬の「浮世風呂」より


 最近の若い人は「銭湯」に入ったこともないし、言葉さえ知らないものもいる。
 しかし、昭和30年ころまでは町屋では家の個人風呂など少なく、入浴は銭湯に通うのがふつうであった。
 江戸時代、銭湯(江戸では湯屋という以下湯屋を使う)は各町内に一軒以上はあったといわれている。江戸ではそれだけ多くの人が毎日のように入ったのである。
 湯屋(銭湯)をとおして日本人の風呂好きが培われたのである。

 今、当時(文化年間だから西暦1808年ころか)出版された江戸の湯屋での風俗、会話、などが内容となる「浮世風呂」を読んでいる。原文だがこの時代ともなるとほとんど意味は分かる。脚注もついているのでかなりスラスラ読める。

 その中より原本「浮世風呂」の木版挿絵を何枚か取り上げご紹介します。

 まずは番台に座るおやじ。この番台は江戸時代よりの伝統であり、昭和の銭湯の番台もこの形式を踏襲していた。

 それでは中へ入って見る。
 まず暖簾をくぐるが、この時代すでに男女混浴は禁止されていた。男湯というのれんがかかっている。小さい湯屋では男女二つの浴槽は作らなかった。時間、あるいは日を決めて男女湯とした。
 大きな湯屋では男女二つに別けて同時営業した。
 男湯に着物を着た女性がいるが湯屋のおかみさんであろう。
 手前からゴザが敷いてあるのが脱衣所、そして水切り場所の狭い竹の簀子のむこうは板敷の洗い場。桶、そしてぬらつく板を時々三助(湯屋の男の従業員)が磨くための砂の山が見えてる。

 次の挿絵を見てもらいたい。
 板敷の洗い場で大勢が体を洗っている。しかし・・

 「湯船がないではないか」

 湯船は左奥、上半分が板壁で下の方にかがんでようやく入れる入り口が見えるがそれを潜り抜けたところに湯船がある。
 なぜこんな構造にしたのか、それは、湯気、熱がこもって逃げないようにするためである。浴槽の保温のためである。
 この口を「柘榴口」(ざくろぐち)といった。

 最後にこれらの江戸の銭湯を時代考証に基づき再現した映画から「江戸の湯屋での一シーン」をご紹介します。(映画「北斎漫画」より)
 かなり上図に似せてセットが作られています。

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

江戸の銭湯、楽しそうですね!入りたいな~。そういえば、小学生のころ近所の友達とよく一緒に銭湯に行っていた記憶があります。お湯が目茶苦茶熱かったですが、我慢してはいるのが快感でした。桶を叩いてドラムの練習をしていました。薬湯とかあって臭かったです。あぁ懐かしいいぃぃなぁぁぁ、その時の友達は今何をしているのだろうか?そんなことより、一度でいいから番台に座lってみたかったなぁぁぁ。ヽ(^。^)ノ

yamasan さんのコメント...

私が小学校のときはわが町(小さいけど)少なくとも5軒以上はありましたよ。私もよくいきました。
 今の若い人には絶対わからないが、「銭湯」は「文化」です。いま江戸の戯作「浮世風呂」を読んでますが、風呂の中での付き合い、コミュニケーション、ボキャブラリーの極めて豊富な会話、ほんとにすばらしい文化と思います。

 私が魅せられる江戸の文化は3つあります。「芝居」「銭湯(湯屋)」「遊郭・吉原」です。いま「芝居」を除いて残り2つはほぼ絶滅しました。悲しいことです。

 でもしんさまのコメントを読むと銭湯の文化を子供の時に味わっているんですね。
 私はもう少し大きくなっても入ってましたよ。大学が夜間で夜遅く銭湯に通いました。「神田川」の世界といいたいけど、待たせ、待たされた「あなた」はいませんでした。そこから長距離帰ると
 「洗い~髪が~芯まで冷えて~♪」
 という歌のようでした。