2011年11月22日火曜日

古代の郷へタイムスリップ 倉庫

明日は勤労感謝の日、この日は昔の神嘗祭の伝統をひくものとして制定されたいわれがある。新穀の収穫を神に感謝し、新穀を供えおまつりするものである。
 稲作文化とともに神嘗祭(新嘗祭)はあるといわれている。そうすると弥生時代以来の伝統である。

 農業の開始とともに人々は収穫の余剰を手に入れた。その収穫物の中でも「穀物」は長期保存がきき、余剰の蓄えとしては最適な作物であった。
 この余剰の蓄えの上に古代の文化・社会・国家があるといってもいいだろう。

 さて、古代の郷には住居群とともに見逃せない建物が存在する。その余剰のたくわえを保管する建物、倉庫である。写真の左奥にあるのがそうである。
 この建物は高床式の建築様式で庶民の家の竪穴とは違っている。太い掘立柱で支えられ床がかなり上部にあり、床下は何もない広い空間になっている。
 貯蔵物の乾燥を保つのに最適の構造である。

 今、我々の周りにこんな建物はなかなか見つからない。ただ、由緒ある神社の「奥殿」がこのような形をしているから、徳島でも神社建築を探せば似たような建物はある。
 タイまで行けば水上建築の住居が高床式である。やはり、湿気を避けるための様式である。

 床下の柱には穀物をネズミなどに食い荒らされない工夫がしてある

 中に蓄えられるもので最も価値のある穀物は「米」であった。保存するためモミで蓄えられたと思われる。穂つきモミだともっと長持ちするといわれている。

 貨幣が存在しなかった古代、米のストックは富そのものであった。

 この高床式はいったい誰の所有物であったのであろうか。村落共同体の共有物としての倉庫なら、少なくともこの村においてそれほど大きな貧富の差はなかったと考えられるが、もし、個人所有であればこのような大きな倉から考えて、相当な富(土地ばかりか奴婢も持っていたかもしれない)

 今でこそ人の富は貨幣で蓄えられ、通帳にいくら入っているかで動産類ははかられるが、明治くらいまでは富の象徴はその人が敷地に「蔵」(倉)をどれくらいの広さでいくつ持っているかではかられた。

 稲作栽培によって大きな農業の余剰生産物が生まれた。有力者はその余剰生産物をこのような倉に蓄え、土地を囲い込み、増々大きな富、そしてそれに伴う権力を手にし、地域を支配する「豪族」となっていったと思われる。

 最後に次の写真を見てほしい。コナラかクヌギであろう落葉樹が黄葉している。これらの木はドングリをつける。またそばには栗の木もあり実が落ちている。
 縄文人はこのような森の木の堅果を採取し、またイノシシ、鹿を追って生計を立てた。狩猟採集生活で余裕、余分な蓄えはあまりなかったが、貧富の差もなかった。

 この縄文の象徴のようなコナラの木を通して小さく高床式倉庫が見えている。これは弥生の稲作農業の豊饒の象徴であるが、これはまた貧富の差どころか支配者というものや隷属した奴婢を生んだ象徴でもある。

 生産力、技術力は弥生時代の方がずっと進歩していた。しかし、より原始的と思われている縄文時代のほうが人々は幸せだったような気がするがどうであろうか。

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

縄文人ってお米をどうやって食べていたんでしょうね?炊飯の技術はあったのかな。まさか生で食べていたっていうことは無いですよね(^-^)/

yamasan さんのコメント...

縄文人は米は食べていません。炭水化物は栗、やまいも、ナッツ類です。どんぐりクッキーを作ってたみたいですよ。

 弥生人は米は炊くのではなく甑で蒸して調理して食べてました。種類も赤米とか黒米とかいろいろあったようです。