2019年5月26日日曜日

唐への旅 その10

20150609

 7月23日、小さな村に停泊している。夜明け時、村を発していく。村人は『この村わなぁ~、県(海陵県)からは、10km余ばっか離れとるぞぃ』と言っていたが、もうすぐか、と思いつつしばらく行くと、水路の側に人が水鳥を飼い、ひとところに集め、外に散らばらないようにしている施設があった。
 
 水鳥の牧場でしょうか、日本にはこのようなものはないから、ここ長江流域の独特の風土なんでしょうか、円仁はんも珍しかったんでしょう。詳しく書いています。一所に飼う水鳥の数は二千余りというから多いですね。そしてこのあたりの水際の隅々にこれがあるといったいます。下のような風景が広がっていたんでしょうか。
 
 
 いかにも長江下流域の中国風土という感じがしますね。これは1200年も前から変わっていないんですね。当時も今もこれらの飼育する水鳥類の近接して人家もあったでしょうね。鳥インフルエンザが新種を発生させるのは中国の可能性が大といっていましたが、こんな家禽水鳥と人同居の生活を見ているとなるほどそうかもしれないと思いますね。
 
 この変の植生についても書いています。西暦800年代とはいえ、もう2000年も前から(長江古代文明)文明化していた地域ですから、この地方の気候に最適化した『原生林』は無くなっています。それにかわって人為によって増えた林が見られるようになります。下は現代中国の竹林です。(観光化されているが)、竹は人によって持ち込まれ植えられた可能性があります。数百年数千年たっているのでいかにも長江あたりの自然風土と勘違いする人もいるようですがそうじゃないですね。竹は色々な用途に使え極めて利用価値の高いものです。割いて細長くし多種多様な竹製品が作れます。そのほか棹、農業用の農具、建築材料、などなど、また竹は木と違って成長が早いことも有利な点ですね。
 
 
 
 円仁はんは書いています。『竹林は処として有らざるなし』と、要するに船で下っているといたるところ上のような竹林が眼前に広がっていたんでしょう。また、竹は4丈(12m余か)くらいのが最適である、と書いていますからこれくらいに成長した竹を中国人は採取していたんでしょう。
 
 「おやおや、船は北を指して行っているぞ」、つまりは運河が北へ掘られているということか。「ここからは西へ向いて行かないのかなぁ」 ここで下に地図を示します。運河の旅の目的地は地図の左に囲われている町、州の都、揚州です。すでにこの地図でいうと「如皐」は通り過ぎました。そして今は「海陵県」のちょっと手前まで来ています。
 
 
 これで見ると大河長江と平行に走っている運河を利用したのがわかります(黒い線がそうです)目的地が揚州ですから大体、西向きに進んでいますが、広い大陸を掘って進んでいる運河です。時として北、あるいは南、もしかすると少しは東へ逆行ということもあるかもしれません。
 円仁はんは書いています。「初め船に乗りし日より多く西に行けども、時々或いは北、或は艮(東北)、或は西北なり」と。
 
 午前8時ごろ、前方に塔が見えてきた。これを見た円仁はん、日本には見かけないめずらしい塔と思ったのでしょうか、土地の中国人に聞きます。「ありゃ、なんぞ?」
 
 地の人はこたえて曰く 「これは、西池寺なり」
 
 西暦800年ころ、日本は平安初期、日本にも大伽藍はあり(奈良薬師寺、法隆寺、摂津四天王寺、京都東寺など)そしてそれらの大伽藍には仏塔がありましたが、みなはんもご存じのように日本の仏塔は木造の五重の塔。中には七重の塔も。だから聳え立つような塔は円仁はんも日本で見ています。しかし、この塔はなんと、土の塔(厳密には塼という煉瓦のような素材)で九層もある。
 
 下は西安の塔、こんなイメージでしょうか
 
 私は中国へは行ったことはありませんが現代中国の観光パンフレットを見ているとこのような土の塔の写真がありますが、これを見るといかにも『中国だなぁ~』と思います。円仁さんもこれをみて中国へ来た実感をしたのでしょうか。
 

 ほんのしばらく行くと海陵県の東端に到達しました。朝出てその日の(23日)明るいうちに着きました。海陵県の域内、西池寺のあるあたりの橋元で船を停泊させると県の役人も迎えに来ていた。日本側の大使、上級使節らは船を下りて寺の境内の宿舎に入り、くつろぐ。しかし我ら(円仁はんも含め)留学僧はなお船にとどまっている。この町(海陵県)の住人が多く集まってこれらのさまを押し合いへし合いしながら見ている。異朝の使節で珍しいのかしらん。・・・・・つづく

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