先のブログと重なるがもう一度、遣唐使船が着いてからの運河の道筋の地図を表示しておく。
7月24日、前日に海陵県につき大使以下日本の使節たちはあの土の大塔の西池寺境内の宿舎で泊まっているが、我ら(円仁)らの留学僧は船の上で一夜を過ごす。留学僧らは不満顔である。
朝8時ごろ、船に西池寺の僧侶たちが慰問のためやってくる。これから仏教の勉強をしようと気構えている我ら日本の僧侶たちは色々なことを聞き出そうとする。ここで問題になるのがそのコミュニケーションであるが、『筆書して情を通ぜり』とあるから、漢字の筆談である。円仁は選ばれた優秀な僧侶ではある。どうして語学が出来なかったんやろ、と不思議に思うかもしれませんが、恐らく困らない程度以上の口語の大陸の言葉ができたのは間違いないと思います。しかし、その大陸の口語がどの地方のものだあるかが問題であります。今日の中国においても南の福建と北の北京ではポルトガル語とフランス語くらいの違いがあると聞きます。まして1200年も前の中国です。円仁はんがどの地方の口語を知っていたか問題になりますがおそらく長安あたりで話されている口語方言だったんじゃないでしょうか。そうすると長安から遥か隔たった揚州あたりの言葉の会話はできなかったでしょうね。
西池寺の僧侶たちはしばらくしてやがて帰って行った。午前10時ころ大使以下寺の宿所にいた人々は船に帰り、一緒に出発した。(目指すは揚州・州の都である)
午後4時ころ冝陵というところに着いた。館があり、これは往還する官員、国家の客の為に供されるとのことである。もっと先まで行くつもりだったが使節団の一員藤原の某が急に下痢をして止まらないので上陸させ治療のためこの館の前で停泊する。円仁らの僧侶も船を下りて病者を見まう(この時代の僧侶は最も優秀な医学知識の持ち主でもあった) この冝陵というところで遣唐使船の第四船の消息を聞いた。(運河を上る船に備えられていたであろう湯水の不便に我慢できず、漁師の宅にいるとのこと、当然、国の進物も迎えの船もないので運上できないでいるとのことだ。
25日、未明、出発する。どうも伝染性の下痢が発生したようで多くの人々が下痢を患っている。そのため船団を構成する各船は遅くなったりして、船の列は前後する。
午後2時過ぎ、揚州郊外のある橋のたもとで停泊する。この橋の北側に禅智寺があるが前回、延暦年度の遣唐大使の忌日にあたるため短時間ではあるがこの寺で修法をする。
ここから約1,5kmで揚州府である。予め着く日時を府に連絡するため遣唐使使節団から使者を遣わす。午後4時、ここを出発する。あと少しで揚州だ。
円仁はこの州の都、揚州について記述している。「江中に充満する大小の船、引き船、は数えきれないくらい多く、行き交っている。」と、一時間で府の中心部の東側の郭の水門に行く。そこから水路で城郭(水路に囲まれているのだろう)の北の方へ進み停泊したのが午後6時ころ。大使たちは陸に上がって宿所に入ったがまだ州の役人には会えていない。我ら(円仁ら留学僧)はまだ船上である。夜に入って雨が降り、揚州に着いたのにまだ下船できず疲労困憊している。
26日、夕方になってようやく船を下りて官設の宿舎に入れる。やれやれ。
揚州は今日でも大都会、水運・陸運。商業の要の地、これは1200年前も変らず。この時代の円仁はんも今と変わらぬ下のような揚州の風景を見たのじゃないでしょうか。
ようやく当面の目的地揚州に着きました。円仁はんはここで来年の春まで滞在します。ここまでの日記でようやく円仁はんの全日記の20~30分の1、唐の旅はまだまだなが~~~~いわ!
0 件のコメント:
コメントを投稿