2019年5月26日日曜日

唐への旅 その9

20150607

 一晩中、トントコトントコ、太鼓の音でうるさくて安眠できなかった、とは円仁はん書いてはいませんがこの夜寝られたのでしょうか。
 
 7月19日、暗いうちから出発する。雲は暗いけれど、雨は降っていない。薄明時、どこからか(船中か運河そばの農家かはわからない)鶏の声を聞く。初めて竹林を見た。また畑には粟、小豆、ササゲなど作られているのを見る。この夜は一晩中、牛に牽かせて運河を行く。どこまでも続く大陸の地形を見ながら進んで行ったんでしょうね。
 下は現代中国の運河、どこまでも平坦な土地の真ん中をまっすぐな運河で行く。
 
 
 7月20日、夜明け時、小さな村につき村人にこの先の町までの距離について聞く。60km余で大きな町がある(如皐)とのことであった。そこからしばらく行くと堰があって『竪堰』を開削する、との描写がある。この『竪堰』とは今でいうところの閘門であろう。つまり運河の水面の標高をあげ、高さの違う運河を階段を登るように船が進行できる施設である。内陸に入るにしたがっていくら大陸の平野とはいえ少しずつ標高は高くなる。運河の水面もどこかで階段状に上げる必要があるのである。さすが中国、9世紀にこんな設備があるとは恐れ入ります。
 
 しかし牛を酷使するせいでしょうか、船の速度は大変遅くなります。そこで重連の船をばらけて3隻を一組とし、男7人で牽いていくが、しばらくすると人も疲れて動きが遅くなる。そこでまた重ねて前のように船を多く連結し牛をつないで牽いて行った。
 
 「まったく、一頭の牛の力は人100人分くらいに当たるなぁ」
 
 とは人々の感想である。
 
 お昼頃、北岸に楊柳が相連なっているところを行く。こんなところでしょうか。下は中国西湖のあたり。
 
 
 午後2時頃、如皐の運河べりの茶店に到着。ここから少し行くとこのあたりの役所がある。いろいろな連絡のためここで停泊する。
 
 7月21日、地元の役人とともに朝出発する。さすが中国の大きい町だけあって水路の左右には富貴の家々が連なって間隙がない。下は現代中国の小運河沿いの町ですが1200年前の円仁はんが見た様子とさほど変わらない気がするが・・・
 
 
 見送りのため一緒に乗った役人はやがて帰っていく。ここより次の海陵県まで約110km余、午前十時ころ、水牛に牽かせるのはやめて全部ばらけて一船ずつにして、人が掉さして進む。この頃になると人家は無くなる。午後5時ころある村で停泊するが、蚊や虻、毒虫が多く、やりきれない。夜中過ぎに出発する。
 
 ここで塩官船を見た。延々とつながっていく。塩のを運ぶ船だけでこんなにつながっていくとは!円仁は大層驚いている。中国の税の重要部分を占めるのは塩税である。我が国のように少し行けば海に出られるようなところでは海岸から来る製塩の流通に課税するのは難しいが、中国は内陸が深い、流通で課税したり、専売にできやすい。古代から塩は国家の税である。
 
 22日、明方、再び船を繋ぎ水牛で牽いて行く。たびたび船を牽く水牛が出て来ますが、同じ水牛でしょうか、多分違うでしょう。古代の街道の宿駅制度のように各中継点に馬がいるように、運河のそれぞれ中継点に牛がいたのでしょう。
 
 このあたりはアヒル、カモが多く家も連なっている。左のような風景でしょうか(現代蘇州付近)白く見える点はこれみんなアヒルです。
 
 家がまばらな地域を過ぎていきます。夜に入りますが止まらず船は進みます。深夜、小さな村に至りここで停泊して夜明けを待ちます。つづく
 

0 件のコメント: