2019年5月26日日曜日

唐への旅 その8 運河をペカペカ牛で、ん、?

20150606

  円仁はん、大陸への渡海お疲れ様でした。この渡海の困難さが強調されるため(難破などで)渡海日数もかなりかかったのではないかと勝手に思っていましたが、実は日本の最西端の五島の島から正味6日で東シナ海横断をやったんですね。これは江戸時代、航海術、船の構造などがずっと進歩した中国帆船の東シナ海横断(~長崎)日数と比べても早い方です。もっともこの時代になると中国ジャンク船のなかには3~4日で東シナ海横断して長崎までやってきた船もあったそうです。
 
 船って意外と速いですね。500kmも離れていない江戸~京都の東海道を15日くらいかけて歩くことから思えば大洋を行く帆船がずっと距離を稼げます。大洋には障害物がないから直線的に行けますし、動力は帆とはいえ恒常的に吹く季節風や貿易風をとらえると夜も日も徹して走るわけですから確かに歩くよりはずっと早いでしょうね。
 
 そういうわけで後悔の最後、大陸のごく近くになって船が座礁したりしてハラハラしましたが、航海は短かった分、船上での苦労も短かったですね。おそらくそんなこともあるんでしょうか、着いた後でも円仁はんは自分の体の不調に関しては一切書いていません。他の乗り組み員も日記を読む限り、みんな元気のようです。
 
 むしろ大陸に着いてからの方が慣れぬせいもあるのでしょうか体の不調や不都合を書いています。平安初期の日本なんかは河川のところどころに水田や畑があったくらいで大部分は緑したたる大森林におおわれていただろうし、河川の水は透明で不純物の少ない、飲み水にも不都合のないいい水が流れていたと思われます。
 
 ところが長江下流に着いたのは現在の暦でいえば8月下旬当たり、炎暑は大陸の方が当然きついでしょう。日記には『大だ(なはなだ)熱し』、だの『蚊や蚋、虻甚だ多し』とか書いています。そしてその大きさは蠅のようで人を悩ますとあり、辛苦極まりなし、と結ばれています。
 
 清流がいたるところに流れ、大森林におおわれる9世紀日本人からすると、こっちはクソ暑いし、おぶけ変えるほどの大きさの刺す毒虫はいるし、まったくえらいこっちゃわ、でしょう。おまけにこっちへ来て大陸の水を飲んだため、赤痢を患うものが出る始末。
 
 7月(旧暦)14日、まだ内陸へ向かっては出発できない。数日以上とどまっている。凡人ならばめずらしい異国に来たのだから酒だの女だのの楽しみを求めるんでしょうか、さすが優秀な坊さんの円仁はん、現地の僧侶と筆談したりして、『情(こころ)を通ず』と書いています。やってきた現地の僧侶はかなり質のいい坊さんのようで文章もうまく、質問してもいろいろ的確に答えてくれるようです。こちらが日本から持ってきた土産をあげるとあちらも桃などをくれた、と書いています。夕方、驚く様な大雨と雷雨、まるで天が降ってきて押しつぶされたように皆肝をつぶす。
 
 7月17日、いよいよ出発か、公私の財物はもやい船に運ぶ。これから大陸内部に向かって延びた運河(揚子江と平行する形になる)を西行することになります。このもやい船の運び方が変わっていて(まず当時の日本では見ないだろうな)水牛二頭を以て40隻のもやい船をつないだ。いったいどんなことかちょっと文ではわかりませんが今でも長江を行き交うもやい船を見てください。1200年前もこんな感じでしょうか。多くの船をつないで多数連結の貨物列車のようにして運河を進んで行きます。
 
 
 上の写真は現代中国の運河の連結もやい船の様子ですが、円仁さんの時代は一隻の船はこれほど大きくなく、そのため、2~3隻を横につないで一隻としてそれを多数連結したとあります。写真でもかなりの長さですが円仁はんの見た1200年前はもっと長かったようで、先頭の船から叫んでも後ろは聞こえなかったといいます。
 
 そして写真では動力は先頭のタグボートのディーゼルエンジンでしょうが、円仁はんが見たのは先頭のもやい船を引っ張るのはなんと水牛二頭、「え?水の上をどうやって?」って、こんな運び方なんぞ見たことない現代日本人は考えますわなぁ、でも考えてみてください、運河ですよ、だいたい直線的に掘られて、運河の側道も付いています。そうするとその側道を水牛をペカペカ歩かせてそれに40隻つないだもやい綱を引っ張らせるのです。そのためには運河はあまり広くては困りますが、円仁はんはこの運河の幅も記録しています。巾、二丈余あり、と書いてますから6m余でしょうか。ま、この巾なら側道を歩く牛に牽かせられますわな。(運河の船を牛に牽かせるのはモ~現代では世界広しといえども滅多にないのかネットの写真を検索しましたがありまへんでした。でも大昔は家畜利用は一般的だったようで18世紀のオランダの運河の船は馬で牽かせたと江戸参府の阿蘭陀人どもは申しております)
 
 午前中出発して運河をこのようにしていくが、意外と速く進む。運河は、幅、曲率、深さなどが統一され水上交通がスムーズにいくように作られているようである。円仁はんはこう書いている。
 
 『是即ち隋の煬帝の掘れる所なり』、と
 
 これを書いた時の円仁はんの時代西暦838年、その230年前には隋の煬帝の時代だった。ワイらの時代からすると江戸時代の天明ほどの昔、そんなにたっていない(今だと1400年以上前だが)。だからまだ中国のそのあたりには煬帝の悪行や善行(あるとすれば運河開削か)の話も人々の間に残っていたんでしょうね。
 
 運河を西行20km弱進んで夕方停泊、夜は運河を進まないみたいだ。やはり蚊が襲来、痛きこと針で刺すがごとしと書いてある。大陸サイズの蚊じゃ。夜じゅう、トコトントコトンと太鼓をたたいている。何じゃろ、と思うがこの国の習わしで官物を守る為船を警護している中国人が叩いているのである。
 
 翌朝・・・つづく

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