島国に生まれ、揚子江大河の大きさを知らん人げんはその大きさにたまげてしまいます。下流を遡行する感じなど我が国の瀬戸内海を行くがごとくであったと思われます(それっくらい幅が大きい)そして護岸も浚渫もされてない自然状態の大河河口というとどのようなものであったか想像してみてください。
左は世界史の教科書にも出てくるナイル河口付近のデルタです。本流から放射状に延びていますが地図には書かれていないが縦の流れ、逆流する流れもあったはずで、川の流れは蜘蛛の巣状態、知らぬ船が迷いこめば迷路のような状態でした。こういう場合、デルタの支流が比較的太く、また海に向かって砂嘴が少なくこの支流まで海の深度が比較的深く船が入りやすいところを河口近くの港としました。支流のため人工的に開削したり護岸したり、浚渫もしやすかったと思われます。このナイル河口でのそのような港は『アレクサンドリア』でした。
これ以上の大河である揚子江河口付近はこれ以上の大デルタ地帯でした。水の流れる流路はほとんど迷路のよう、また潮の満ち干によって流路も変わり、案内人のない船は航行は不可能でした。
左が揚子江河口です、遣唐使使節はこの地図にある掘港(如東)の上陸を目指しましたが案の定、砂洲やデルタの複雑な流路、変化する潮の流れには阻まれてしまします。
海の中にあるの白い雲のようなものは浅瀬・砂嘴・砂洲でここを避けて通らねば船は座礁してしまいます。また、運よく水路の一つにたどり着いたところでまるで迷路になった水路、どこをどう行けばいいのでしょうか。
こんな光景を目にして困ったでしょうね。どの水路をとるか?迷路ゲームとしては面白かろうが大義も命もかかっていますからね。必死です。
でも蛮族の国ならともかく、当時の東アジアの先進国唐です。あらかじめこのあたりに遣唐使船が着くのはわかっています。末端の行政官、あるいは軍団に河口の砂洲あたりでそれらしき船がウロチョロしていれば助けて宿舎に案内せよと命じられていたでしょう。
先に出発した大使が河口付近の葦原で難儀していると唐の下級役人(塩官)がやって来た。大使の側近をその役所に遣わし筆談し、遣唐使であることの証拠を見せる。それでようやく大使一行は賓客として宿舎に案内される。
またこちらは円仁はん一行、前に日、迎えの船が来て揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村で留まっていたが三日、潮が起るのと同時に道を知る地元船は先頭を切って案内し、掘港庭に赴く、巳の時白潮口に至れば、流れは速いが慣れたもので無事乗り切る。ここで遣唐使船の第四船が北海に漂着したというのを聞いた。昼過ぎ白潮鎮管内の軍中の村に至る。ここで先に海中で別れた30余人と再会し喜び合う。
ここに遣唐使船一船すべての人がそろう。壊れた船に置き忘れた国からの進物を現地人を雇い運び、濡れたものは乾かし、壊れたものは修理する。
ここで数日たったが、未だに州県からの公式の慰労はまだない。仕方ないので人々は各々が便を求めて宿を探す。辛苦すること少なくない。
ようやく旅の疲れも落とせそうだが唐の国家からの正式命令はない。どうなるのであろうか。
つづく
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