2019年5月26日日曜日

唐への旅 その6

20150530

 29日日の出とともに、潮が引きだした、淦水(アカ水)もそれにしたがって引いていく(ちょっと一安心か)、船手の人が船底を見るがあちらこちら壊れている。艫の方の砂は船端の横木を埋めて言う。それらの傷み具合を見ながらみんなは対策を話しあう。「船はすでに壊れているもし再び潮が起ってきたら、押さ落砕け散るのではないか」そこで帆柱を倒して船のじゅぶの構造物の横木も切り落とし、船の四方に棹を立て友綱にて船を固定した。
 
 この日の亥時(ごご10時)、西方を望見するとわずかに火光あり。人々はこれを見て抱き合わんばかりにして喜ぶ。一晩中見ているが山や島は見えず、だだ、火光を見る。
 
 円仁はんの日記はこの後もこの後の経過を続けて書いていくが遣唐使さんで一番偉い遣唐大使についてはすこし飛んで日記に書いている。前後しているのでわかりづらいが、大使はんはこの29日さっさと船を離れているようだ。7月2日の円仁はんの日記に唐突にこんなことが出てくる。
 
 ・・・2日の日記について書きながら、突然、・・・聞導(キクナラク)、大使は29日未時(午後2時)をもって船を離れたり、などと書いている、なんや、いっちょう偉い人はさっさと船を捨てたんかいな、この書きぶりやと円仁はんはしばらくは知らんかったことになる。
 
 「ほんなに急いで皆ほっといて逃げたらあかんやないか!」
 
 と思われましょうが、この29日の砂洲に座礁した時点で、ここは揚子江河口付近だとはみんな分かっていたでしょう。大波にでもさらわれ海中にもって行かれない限りは、遅かれ早かれ連絡を取って大陸のその筋の人々が迎えに来てくれます。まず、命は心配ない。29日の潮が引いた朝のうちから小舟を偵察のために出したんじゃないでしょうか。遣唐使自らもその小舟の一つに乗って出たのでしょう(小舟が何隻あったかは書かれていないが、今日でいう救命ボートのようなものですから多くても2~3隻じゃないでしょうか。
 
 そして後になって円仁はんは書いています。大使が船を離れた後。(以下大使の乗る小舟)漂流の間(大使の小船)、風は強く大波が出て来た、沈むのを恐れて碇(いかり)を捨て物を投げ捨てる。その後、風は急に止んで子時(午後0時)大江河口(揚子江河口)の南の葦原辺に着く。
 
 円仁は壊れかけた遣唐使船(第一船)にとどまっているが、大使は小舟で西の方、河口を目指して出発する。
 これは弘法大師絵巻の一部であるが右が遣唐使船、左が遣唐使船に装備されていた小舟であろう。
 
 さて途中から別行動をとった大使はおいといて残された遣唐使船と円仁さんらです。安定の悪い砂洲に乗り上げたため何とか安定させるため努力と続けていますが、7月二日(6月は小の月で29で終わり)、早朝、潮が上の方へ上がってきて、船に浮力をつけ、潮にそって進み始め、数十kmほど進むと西の方に島が見えました。船が二隻並んでいるような形の島です。しかし、進んで行くと大きな陸地であることがわかりました。
 
 もうこの時になると陸地沿岸部に船がいることが目視でもわかる。船は相変わらず流れ続けていきますが両側の潮が渦巻く複雑な海域に入りました。横に流されるような形となり5kmほど進んで泥についてしまいました。再度の危機です。そのとき西北の方から波を縫って近づいてくるものがあります。人々は
 「もしや是は船を迎うるものならんか」
 と話し合いますが、期待通り、この船に向かった来たものでした。乗っている人は先日遣わすところの警備兵とそれが連れてきた唐人6人でした。
 
 まず、先に出られた大使の船はいったいどの辺に着かれたのか効きますと、まだどこに着いたかわかりませんとのことで一同悲嘆にくれる。(この時点では大使がどこへ着いたか知らない)。
 
 迎えの船に行って国からの進物を移す。学問僧・円仁はんも入れて27人は迎え船に乗り移って陸を指していく。
 
 午の時(12時)揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村に至る。日本国の承和五年七月二日、すなわち大唐の開成三年七月二日なり、年号は異なると言えども、而も月日は同じ、留学留僧は守捉の軍中季賓の宅に至って停留する。
 
 円仁はんようやく唐に上陸し、まともなところで一夜を過ごすことができました。
 
 次回につづく
 

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