今日の遍路といえば、ほとんど思い立っただけで、即出発も可能である。家出同然に故郷を出奔した青少年。あるいはやましい事があるため(それは犯罪かもしれない、実際、草遍路と称して八十八ヶ寺を無限連環して周り、マスコミに取り上げられた爺ちゃんが、殺人未遂で全国指名手配だったという話もある)巡礼に逃避行を重ねた人もなかにはいる。
しかし澄禅はんがまわった江戸時代は、あたりまえであるがそんないい加減な動機は許されなかった。巡礼である遍路の目的はあくまで信仰と修行の旅でなければならなかった。そのため道中は故郷の寺発行の『通行手形』と阿波藩発行の『遍路手形』を所持しなければならなかった。われわれが今日海外旅行へ行くときに必要なパスポートとビザと考えればいいだろう。だから思い立ったら即出発、などはできなかった。通行・遍路手形発行の手続きを済ませそれを持ち、巡礼にふさわしい格好、所持品の準備もしなければならなかった。なかなか大変である。
ところがいったん出発してしまえば、金がなくなっても、食べるものや泊まるところなどは、人々の『報謝』が期待でき、また回る寺寺、順路などは自分で選べた。期間も定まってはいたが遍路を続けながら再延長も可能であり、病気、食事、宿泊に困らなければ比較的自由な遍路旅であった。
この時代の巡礼一般についてその格好をちょっと見ておきましょう。
着物は特にどんなものでもよいのですが、その上に笈摺(おいずる)を着ます。おいずるとは袖のない白い半纏のようなものです。お寺にお参りするごとにそのおいずるにお寺の印を押すこともあります。
首から納め札を入れた箱や札そのものを紐に通したものをかける場合もあります。
笠には「同行二人」と書きます。西国巡礼は阿弥陀はん、四国巡礼はお大師さん、といっしょという意味があります。
杓子を持っていますね。これは銭や米をもらった時に受けるもので、胸に袋を下げてもらった米などを入れます。
これは江戸末期の歌川広重の描く巡礼です。
他にも広重の五十三次の木版画に出てくる巡礼を見ておきましょう。下左図は上の巡礼の一般的な格好と同じですね。下右図の母子は、おいずるを着ていませんが巡礼者のようです。後ろにいる大きな天狗を背負った人は金毘羅参りの旅人です。
次に持ち物ですが見てもわかるとおり、ほとんど荷物は持っておりません。着たまま何日も旅を続けるわけですが、今のように時間に追われる旅でもなし、ゆったりとまわる間に着物などは汚れたら小川で洗濯などして乾かすまで待って、再び旅をつづけたのでしょう。モノクロの図で女性がコモ(ムシロのように見える)を背負っていますが、これは寝るときに使ったものです、敷いたりあるいは被ったりしたのでしょう。今四国をまわる若者が寝袋とシートを持って旅をするのと同じですね。
江戸後期になり四国遍路が盛んになると四国遍路のガイドブックが登場し、多くの遍路もこの小冊子をもって旅をしました。下図は「四国遍路道指南」(真念著)・県立博物館収蔵、です。
また、今までつづく伝統のある「納経帳」が形式を整え登場しました。これは江戸末期の納経帳です。今と変わりませんね。(末期も末期、江戸時代最後の年、慶応4年だぁぁぁ~~~) 県立博物館蔵
これらは遍路の必須アイテムとなります。両方冊子ですから、重荷にはなりませんね。
それでは旅を続けましょう。常楽寺の参拝が終わり、次に向かうところですね。ここで上記にあった遍路のガイドブック、「四国遍路道指南」を取り出して今参詣の終わった常楽寺を見てみましょう。
『平地、南向、名東郡、本尊弥勒菩薩、坐長八寸、作者不知」とあり、御詠歌、所在の村の名前も書かれています。そして次の寺・国分寺までの距離も載っています。ごく簡単な記述ですが重要なことは書かれています。しかし澄禅はんはこの指南とは逆に回っているわけですから次は一宮(大日寺)になります。
(常楽寺を出て)夫ヨリ野中ノ細道ヲ往テ河原ニ出ル・・・とあります。今でも常楽寺を出て大日寺につづく「四国の道」(歩道)は細道です。こんな感じです。
そして河原に出てからのことをこのように書いています。
『(河原に出て)、見渡シ二町斗也。炎天ノ時分ナレバ水干落テ渡安シ。田ヲ刈テ居ル者ニ問エバ、雨天洪水ノ時ハ此二町余ヲ流、中々歩渡リハ難成ヨシ。何モ舟ニテ渡ルト也。彼是十八九町往テ一宮ニ至ル。』
今は河原はアスファルトの道路が走り、コンクリートの橋ができているが、河原も含めた川の幅は今も約200m(2町)で昔と変わらない。動画の鮎喰川は先日の台風のあとで水かさを増しているが、普段の7、8月は澄禅の言うように「炎天の時分は川水が干上がり徒歩でも通行できた」のである。
下が上記の情景の今の様子
その一宮の絵図を見てみよう。ここでちょっと注意してほしいのだが、江戸時代のこの札所は「一宮」と言われているのである。一宮とは古代延喜式で格付けされた阿波国の筆頭の神社という意味である。しかし札所であるからには寺でもある。この時代、神社と寺は同じ敷地に存在して分離できないものが多かった。神仏習合の寺は多かったのである。神社の中に存在する寺を「神宮寺」と言ったがこの一宮を見るとその形態ではなかったのかと思われる。強いて分けるとすると絵図の赤線の右が寺、左が神社である(建築様式の違い鐘楼、鳥居があるところからわけられる) もちろん実際には赤線などない。面白いことに現在はこの赤線に沿って国道が走っていて、その国道が神社と寺を分けている。
今も太鼓橋、鳥居、神社の本殿、寺の本堂の位置関係は変わっていないことがわかる。ただ澄禅は太鼓橋を「五間のソリ橋」といっている。上図を見ると確かに谷の小川にかかる橋の大きさは五間(9m)ほどありそうである。しかし現在の太鼓橋は石橋で五間もない。ちょっとご覧ください。
江戸時代のモノとは明らかに違う。澄禅はソリ橋といっているだけで、石橋とは言っていないから江戸期の太鼓橋は木造橋であろう。(絵を見る限り木製だ)
神社と習合した寺の建物は立派だったようで澄禅は、『殿閣結構也』といっている。下は今の神社と寺
ここで札を納め念誦看経して参拝を終わる。そこから藤井寺に向かうのであるが続きはまた次回ブログで。
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