2019年5月20日月曜日

むかし日本は帝国だった

20140822

 先日、文化の森へ行ってきた。8月中は無料ということで博物館、鳥居龍蔵記念館を見学した。その鳥居龍蔵記念館について今回は書きます。
 鳥居龍蔵博士はわが郷土が生んだ文化人類学・民俗学の偉大な学者である。彼の研究分野は各民族やその文化を研究対象とするものであるから、研究対象は世界各地の民族や文化である。しかし彼は地の利を生かして、東アジアの諸民族を研究課題にした。
 記念館に彼が研究対象とした地域の地図があった。青に白抜きされている地域がそうである。
 鳥居龍蔵が学究生活に入ったころ、日本は近代国家としてのシステムを完成させ、国力を伸ばしつつあった。それはアジアへの進出となって現れる。そして日清戦争、日露戦争で大陸の足がかりをつかむと、日本も欧米諸国のようにいわゆる「帝国主義国家」として外交・軍事政策をとるようになる。
 今日的基準で帝国主義がいいかわるいかの判断はおくが、19世紀末~20世紀初頭にかけては欧米列強といわれる諸国は例外なく帝国主義的政策をとっている。日本も世界に伍して行くために・・否!欧米列強に支配されないためにはこの当時、やむをえない政策だったといえる。
 そのときの(19世紀末~20世紀初頭)世界地図を見てみると欧米の列強の多くは「○○帝国」と呼ばれていた。大英帝国、ロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、フランス、アメリカは違うが、このころ帝国主義的政策をとっていた。そんなところから「帝国」主義という言葉も生まれたのであろう。
 それらの帝国主義国家は植民地を有し、なおかつ貪欲に植民地を欲していた。結果、帝国主義国家には多くの民族を抱え込むことになる。そういった環境もあってか、多くの民族を抱え込んだ帝国主義の時代には新しい学問が隆盛する。各民族を対象とした形質人類学(生物的な人種の研究学)、文化人類学(各民族文化の研究学)である。ついでに言うと後者の文化人類学は今日でも学問分野は確立されたものであり、研究が盛んだが、前者の形質人類学(生物的な人種の研究学)は全く廃ってしまった。そもそも今は人種の定義も見直され「人種」という言葉を安易には使わない。この形質人類学がナチスの人種優生学と結びつきある特定の人種絶滅策に援用された苦い過去があるからだ。
 帝国主義時代、宗主国のこのような学問が陥りやすいのは、宗主国の人種、民族を優位に置こうとする態度である。今日でも白人至上主義は残っているし、日本でも他の東アジアの民族比較して日本民族文化の優位を解く人もいる。しかし、今日、文化人類学では各民族の文化は同列に扱い、優劣を論じるような価値判断は学問になじまないという考えが確立されている。
 鳥居博士はこんな時代にあって比較的公平な態度で各民族の文化を研究したことで知られている。そのため敗戦後も活躍をつづけ、文化人類学の先駆者として今も高い評価を受けている。
  それにしてもこの時代、日本も「帝国」(大日本帝国)でその版図に多くの民族を含む国家であった。上手の地図の白抜き文字の地域は日本の植民地であるか、その進出地域であった。その版図内の諸民族を研究するにはある意味帝国主義時代はいい時代であったかもしれない。(もちろん支配民族として色眼鏡をかけずに見ることは難しいにしても)
 鳥居博士の研究対象の各民族文化はそんなわけで大日本帝国の植民地・進出地域の民族に一致する。当時、日本帝国の版図は北から、千島、樺太、遼東半島、朝鮮半島、台湾、赤道までの太平洋諸島(ミクロネシア)、進出地域は旧満州(今日の東北三省、内蒙古)であった。包摂する民族は20を下らないであろう。
 展示ブースを見てみると
 



























 そして研究対象となった代表的民族はアイヌ(左写真)、台湾山岳少数民族(当時は高砂族とも言った)である。この時代にこの二つの民族の学問的研究が日本人によって始められたのであるが、今日でもこの二つの民族の研究は奥が深く、研究課題は多い。(アイヌと縄文人の関係、そして日本人の形成にそれらがどのようにかかわっていたか、台湾山岳民族と太平洋に広がるポリネシア系民族との関係、その遺伝子が原日本人にどう受け継がれているか等々、興味は尽きない)










 『なるほど、これらは大日本帝国の版図と一致する。この博物館ではそのようなことは全く強調していないし、むしろ意図的に(なぜかわからないが)隠されているような気もするが、むかしむかし、日本は帝国だったのだ。よくも悪くもその時代、他民族の上に大日本帝国は君臨していたのである。その中で民族学の研究が花開いたのである。』
 以下展示物(部分)
 立体展示もありました動画でご紹介します。

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