国分寺まで来た。前の観音寺は街道沿いにあったため町屋もあったが、この国分寺のあたりは田野の真ん中にあり、さびしいところである。しかしこの辺りは古代においては国府のあったところで阿波の政治の中心であった。それから千年以上が過ぎ、今は見る影もない。澄禅はこのように書いている。
『少キ草堂是モ梁棟朽落テ 仏像モ尊躰不具也・・・』
荒れ寺という言葉がぴったりのひどい有様であった。肝心の御本尊もどこへ行ったやら、具わらず、と書いている。国分寺は古代においては阿波の国で最も格の高い寺であった。聖武帝の肝いりによってつくられ、七重の塔を有し、金堂、講堂を備える大寺院であったはずである。僧侶も20人と決められていてそれを維持するために寺田、封戸(寺の為に与えられた百姓)も所有していたのである。
澄禅はその変遷を知っていたのであろうか?かなり教養のある人だったのでその辺のいきさつは知っていただろうと思われる。このように書いている。
『昔ノ堂ノ跡ト見ヘテ六七間四面三尺余ノ石ドモナラベテ在、哀ナル躰也』
おそらく巨大な礎石の跡に昔の栄華を見ていたのであろう。哀ナル躰也、という慨嘆がそれを表している。
寛政期の絵図を見てみよう。この時代は立派な本堂が建てられている。境内に巨大な石が点々としているのは澄禅の言う昔の堂のあと、国分寺の礎石である。今も境内に四面三尺ほどの七重の塔の芯礎石がある。(前々回の、巡礼の旅その6の動画の国分寺をご覧ください。七重の塔の芯礎石が確認できます。ここクリック)
江戸も中期以降になると四国遍路も盛んになり、全国各地からたくさんの巡礼が訪れるようになると、「これではいけない!」と、藩主や篤志家、地元の檀家などが寄進したりしてこのようにきれいに建てられたのでしょうね。
そこから山伝いに800mほどで常楽寺につきます。澄禅は『是モ少キ草堂也」(小さくてみすぼらしいお堂)だと書いてます。が寛政期の絵図では国分寺と同じ理由で立派なお寺となっています。
絵図を見てみましょう。小高い山の中ほどにありますがこれは今も変わりません。この絵図を見ると参詣の道は今の寺の山門(正門)の参詣道ではなく、現在は寺の裏に当たる八幡神社からの道だと考えられます。
もしかすると絵図の左下に石垣で囲った木の横にあるお社のようなものが昔のお八幡さんかもしれませんね。
ここから野中の細道を通り、半里ばかりで一の宮(大日寺)であるが、それはまた次回ブログで。
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