2019年5月20日月曜日

巡礼の旅 その7 観音寺と街道

20140818
 井戸寺を出て観音寺に向かう澄禅はんはこのように書いている(原文ママ)
 『・・・夫ヨリ田中ノ細道ヲ通テ元来大道ニ出テ・・・』云々
 井戸寺へ行く道は彼の言う「大道」から逸れているのがわかる。そして観音寺には再び、元来た「大道」に帰っていることがわかる。この澄禅はんの言う「大道」とは単なる広い道という程度の意味なのであろうか?そうではあるまい。この「大道」というのは伊予街道のことであると考えられる。
 まずは江戸時代の観音寺の絵図を見ていただこう。(澄禅の時代より100年以上後になるが)
 
 塀重門で仕切られているが左の敷地も観音寺であろう、左寺の敷地を歩いているのは服装格好から僧侶である。右の敷地の寺には鐘撞き堂、大師堂、本堂があるのがわかる。そしてその前の道を見てもらいたいのだが、これが澄禅はんの言う「大道」である。かなり広い道であることがわかる。この道が伊予街道である。観音寺は伊予街道に直接面しているのである。(上図から判断しているのであるが、それは寛政末の頃、17世紀の澄禅の時代は街道は完全に整備されていなかったことも考えられる)
 徳島藩は幕府にならって五街道と名づけた藩の5つの主要街道を整備するのである。それが

●淡路街道
●伊予街道
●撫養街道(川北本道ともいう)
●土佐街道
●讃岐街道

 である。この中でも伊予街道は徳島平野を貫き、阿波の西部の大きな町々を結び、吉野川水運と平行に走っている最も重要な街道である。その主要街道が上図に見えている大道である。
 このような街道は東海道のような宿場こそ整備はされなかったが(東海道のように何か国も貫く長途の大動脈ではないから)、一定の距離ごとに一里松(駅伝所)を設けた。一里松というからには一里ごとかと思うが、おおむね一里(三六町・約4km)であるが若干長短はある。

 伊予街道のその一里松は、城下大手門前より~鮎喰~石井~諏訪(今の浦庄あたり)~喜来(鴨島東部)~川島~・・・に設けられていた。
 澄禅はんが再び井戸寺の小道から戻った「大道」はこの『鮎喰~石井』までの伊予街道である。しかし澄禅はんが伊予街道に戻って歩いたのはほんの少し、すぐ観音寺に着き、参拝を済ますと、この街道を再びそれて国分寺の道に入るのである。
 この後、国分寺~常楽寺と参拝し、一宮(大日寺)へ向かうのであるが、伊予街道からはだんだん遠ざかり、鮎喰川を遡るように進んで行く、しかし、一宮のあと藤井寺に向かう予定であるから、また伊予街道の方へ帰らねばならない。そのため一宮参拝のあとは鮎喰川北岸に出てそこより山越えで徳島平野に降りる峠道を予定している。
 さて、観音寺参拝を終わり、伊予街道に出たのであるから、当時の街道の様子を今少し、澄禅はんに描写してもらおう。
 街道は様々な人・モノが行き来する。現代の道はほとんどが自動車の為の道であるが、この時代は人馬のみの通行となる。しかし、この時代にも荷車はあったはずである。大人八人分の荷駄を運べるいわゆる「大八車」はあった。人力で押すあるいは引くにしても車を利用すれば何倍もの荷を運べるのであるから運搬手段としては大量輸送に(人力荷車とはいえ)非常に合理的である。当然、街道なんかはこのような荷車が多く行き交っていると思うが、そこを澄禅はんに聞いてみると・・・
 「確かに私がいた大坂あるいは江戸の町中では大八車は見てますし、ずいぶん便利なものです。広重の東都図絵にもこのように描かれています。」
 「これは江戸高輪ですけど、このように大八車が風景の一部として描かれていますから、大都市では使われています」
 「しかしですなぁ、街道ではほとんど見ません。東海道でも荷車はごく一部の地域を除いて走ってはいません」
 なしてそういうことになるのでしょう?このような荷車を使えば大量輸送、省力化、非常に便利ではないですか?
 「あのねぇ、この時代の往還(道路)は徹底して、人、馬優先の社会です。道は馬、人が行き交うためのもの、車は想定されていないといっていいのです。」
 「江戸、大坂の大都市でもそれは変わりません。幕府は荷車の轍による道路や橋の損壊、そして人馬に対する交通事故を極めて警戒しました。そのため荷車は登録され、使用や通行場所に厳しい制限も設けられていたのです。」
 じゃあ、街道にはほとんど荷車は行き来してなかったことになりますね。他にも理由があるのじゃないですか?
 「幕府も藩も街道で生計を立てている荷駄人夫、馬子、駕籠かき、などの人の生計を奪わないよう配慮したこともあります。一人で八人分の仕事ができる大八車なんかは多くの人々から職を奪うことになったのです。この時代は人も馬もそれぞれが運べる荷駄で持って労賃をそれぞれに分けあって得ていたのです。」
 「東海道五十三次の木版画を見てごらんなさい、荷車なんぞは出て来ません。行き交っていなかったのです。ただ大津と京都の間のごく短い距離だけは、昔からの伝統で「牛の牽く荷車」が許されていました。街道では極々例外です。それが下図です。」
 「二枚とも大津です。琵琶湖水運によって北陸方面から運ばれてきた貨物が大津の琵琶湖岸に集積されます。その荷を京都に陸送するのがこの牛さんの車なのです。引く牛の背中を見てください、日よけのムシロが広げてありますね、牛さんが陽に焼かれて暑いだろうとこのようにしたのです。ずいぶんと動物に優しい社会ですね。もしかすると五代将軍綱吉さんの教化の賜物かな(冗談ですけど!)」
  
 「まあ、それはともかくこれ以外の街道筋で荷車は以上のような理由でまず見ません」

 なるほど東海道で上図のような一部の例外だけで荷車が行き交っていないのなら、阿波の伊予街道に荷車がほとんどいないのも頷けますね。よくわかりました。
 では観音寺前の街道の往来を詳しく見ていきましょう。まず人馬の馬ですが、上図を拡大しますね。
 拡大してもよくわかりませんが、人に引かれた馬は荷を負っていますね。だいたい俵で2~3俵分、もっと背負わせそうですが、江戸時代はこれ以上の過度の負荷は禁止、馬にずいぶん優しい社会でした。
 次は街道の左にいる二人ずれの往来人を見てみましょう。これも拡大してみますね。
 解像度が良くありませんが、杖を突き菅笠をかぶっていますから巡礼か旅人でしょうね。右の人はどうも振り分け荷物のようですね。左の人はこれは笈(きゅう)でしょうかね。五十三次絵図からさがすとこんな人でしょうね(左が笈、右が振り分け荷物の旅人)
 日よけの効果の大きい大きな笠、手甲、脚絆、しっかりと藁紐で足に括る草鞋を履いているのに注意してください。左の人は杖も持っています。このような格好が江戸時代の街道を何日も歩く旅人の標準装備です。

























 街道の人馬を説明しているうちに日は高くなってきました。先を急ぎましょう。25町ほどで国分寺です。ここからはわりと近いです。(一町は約109mほどと計算してください)、ほら、国分寺がもう見えてきましたよ。
 下の動画は先日、観音寺~大日寺を周ったときのものです。

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