2019年5月20日月曜日

ボニおどり

20140814

  ボニおどり 各地のボニ踊りの起源についてはいろいろな説があり、その系譜もこうだとかああだとか、諸説入り混じって混沌としていることが多い。文献資料があれば研究もしやすいだろうがボニ踊りは庶民やもしかするともっと下層階級がはじめたものであるためか、今に残る確たる文献の証拠もないから、起源やその系譜はこうだと断定出来ない。
 
 阿波踊りの歴史についてもそれは言えることで、阿波踊りの起源系譜については観光協会などがパンフレットなんかで触れてはいるが、私はあまり信じていない。男性踊り子の尻はしょりの浴衣姿や女性踊り子の鳥追い女スタイル、そして連を組織して列を作って、決まった形式の踊りを踊る、などという形はウンと新しいものであると思っている。(おそらく大正以降ではなかろうか)
 
 しかしここ阿波でもずっと以前から庶民の自然発生的な踊りはあった。それは個人の踊りを越え、群舞するものであった。それはある種の集団熱狂であり、社会階層の下から澎湃として沸き起こるエネルギーの噴出であった。秩序を重んじる支配階級にとっては時としてそれは脅威となるものでもあった。
 
 『狂喜乱舞す』という言葉があるが近代人である我々がその言葉を使うときはだいたいが比喩に近いもので、感極まって本当に狂喜乱舞するなどということはまず大人の人では見かけない。しかし、中世人は違った。魂の躍動は即、体の躍動であった。何らかのエクスタシーに浸される時、人々は文字どおり狂喜乱舞したのである。
 
 まず最初にそれは宗教的エクスタシーとしての狂喜乱舞から始まる。13世紀に一遍上人が『踊念仏』を始める。
 
 そしてそれは群舞へとつながる。
 
 
 そんな踊念仏なんかここ阿波は関係ない、と思われるかもしれないが、一遍さんは全国に踊念仏を勧進してまわった旅の聖です。我が町にも来ているのです。麻植郡(鴨島町)飯尾にある河辺廃寺です。今は遺跡跡しかありませんが、13世紀にここに一遍さんが訪れ、念仏踊りを勧進したものと思われます。(以前そのブログを書いてますのでご覧ください。ここクリック
 
 その時の踊りが盆踊りにつながっているとは言いませんが、宗教的エクスタシーから自然に体が跳ね踊るという中世人の心情は江戸時代にも受け継がれます。江戸時代になると近世人としてかなり我々に近い心情を持ってくると思うのですが、それでも時々起る火山の噴火のように突如として沸き起こり、群衆が狂喜乱舞したものと思われます。(阿波でも突如として大勢が踊り狂って伊勢参りに行った現象が為政者の残した文献に書かれています)
 
 いつ沸き起こるかわからぬ下層民の狂喜乱舞は為政者にとっては不気味なものだったでしょう。それならば、為政者はある期間のみ、無礼講で狂喜乱舞を許し、そのエネルギーを発散させようと考えるのではないでしょうか。まあ、そこまで意図せずとも、結果的にボニの数日間のみの狂喜乱舞はそれに当てはまるではありませんか。
 
 ここ阿波でのボニの狂喜乱舞図として有名なものに『鈴木芙蓉筆「阿波踊り絵図」/個人蔵・1798年』があります。百聞は一見に如かずでまずご覧ください。
 
 今日の阿波踊りとはずいぶん違っていますね。私はこれを見て、今の阿波踊りとは全く別物で、今の阿波踊りとは「大きな断絶がある」という印象を持っているのです。
 まずこれを見ての印象をどう持ちましたか?私は時代を超越したあまりの斬新さにおぶけかえりました。この時の風俗を現代に再現したグループがいます。ちょっと見てみましょう。
 
 何とも言えぬ雰囲気を醸しています。(踊りも囃しも一応は当時を再現したといってますが、それは疑問です。しかし衣装格好は絵図が残っているためかなり正確です) 江戸時代にあってこの斬新さはなんなのだ!現代でもこんな踊りグループにはお目にかかれない。強いて今、よく似た集団を探すと『ちんどん屋』か。何となく異国的で、かつ魔法的(ハメルーンの笛吹きの魅魔的雰囲気と言おうか)、ホントに江戸時代かよ、と思ってしまいますが絵図が残っているから間違いないですね。
 
 今でもそんな印象を持つから江戸時代はもっと強烈だったでしょうね。異国的というと、絵図をよく見てもらうと色とりどりのだぶだぶのズボンをはいているのがわかりますね、このトルコズボンのようなものは袴とはちょっと違います。軽衫(カルサン)といって、長崎屋カステラの南蛮図屏風のポルトガル人のズボンから来ています。当時としては南蛮風、ということは邪宗的香りがする風俗でしょうか。そして赤いチャルメラを吹いている人もいます。チャルメラは江戸時代の人には唐人(長崎の中国商人や朝鮮通信使の風俗も含める)のイメージのある楽器でした。
 
 そして心から狂喜乱舞し、体をくねらせて踊る人々。異国風と相まって、魅魔的雰囲気たっぷりぷりぷりではありませんか。
 
 江戸中期、徳島新町橋の上、文月の満月の下、こんな自由で闊達な踊りを繰り広げたボニ踊りが、どうして今のような形に・・・断絶があるとしか思えません。
 
 この18世紀末の阿波のボニ踊りが現代につながっているとはおこがましくて言えませんが、これを遡ることはできます。16~17世紀初頭に京都を中心に流行った「風流踊り」に行き当たります。上記の絵図は夜、しかも満月が出ているので晴れているわけですが、真っ赤な傘を持って踊っていますね。これは風流踊りの特徴の一つで「風流傘」と呼ばれたりしています。
 
 阿波ボニ踊り絵図遡ること200年前の「洛中洛外図屏風絵」の風流踊りを見てみましょう。
 
 以下、部分
 
 
 風流傘をさしかけて踊っているところや体をくねらせ狂喜乱舞している図は阿波ボニ踊り絵図とよく似ているとは思いませんか。私には18世紀末の阿波ボニ踊り絵図と現代の阿波踊りには深い断絶があると思う一方、安土桃山~江戸初期の洛中洛外図の風流踊りには連続したものがあると思うのですが。
 
 安土桃山~江戸初期は海外の交易も自由になされていた時代で、禁教の時代でもありません。海外の風俗が入る一方、人々の目は世界に開かれて進取の気性が養われ、それがこのような自由で斬新な風流踊りに反映したのではないでしょうか。その系譜をひく18世紀末の阿波ボニ踊りがどうして今のような阿波踊りになったのかわかりません。18世紀末の絵図のボニ踊りと現代の阿波踊りとは明らかな断絶が感じられます。風流踊りの流れを引く踊りがオーソドックスに発展して今の阿波踊りになったとは思えないのです。

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