2019年5月20日月曜日

巡礼の旅 番外その1 昔の佐古川はどないなっとんやろ

20140805

  
 江戸時代の巡礼の旅のブログを書いているが、当時の佐古川沿いの堤防道、そしてそれにそってできた佐古の町はどんな様子だったのだろうか。当時の様子は今と違っている部分が多く、歴史資料も少なく、特に絵図、絵地図などが少ないため想像するしかない。
 
 現代の佐古川の河口(新町川の合流しているところがそうである) 今はそこに水門を設けている。この広さだと高瀬舟に荷を乗せて佐古川沿いの商家に商品を運べる。江戸時代はトラックなどない。道も悪いし、人馬優先の道路は大八車のような荷車も制限されていた。そのため多量の荷物は船で水上輸送された。
 
 佐古川沿いに今も商家が立ち並ぶ。佐古川は輸送の水路として利用されたのが今のこの写真の様子からもわかる。この部分では高瀬舟が上り下り、2隻がすれ違える広さだ。
 
 ところで今の佐古川の護岸はコンクリートで固められているのが多いが、昔作られた(明治以前)護岸は阿波の青石が使われている。左岸を拡大すると・・・
 
 実はこの青石、この佐古川が流れる眉山山麓の青石の露頭から取り出されているのだ。地元の人もほとんど知らないが江戸時代、上の写真の場所の少し上流の『諏訪神社』付近で採掘されたのだ。
 
 諏訪神社の前を佐古川に平行に走っている道は大谷通りと呼ばれるがこのあたり一帯で青石が取れたと思われる。諏訪神社の石段の横に巨大な青石の石灯籠があるがこれはここの青石で作られたものである。
 地元の古老に聞いても採掘されたことすら知らない人が多い。しかしこのあたりを歩くと、青石の露頭が見えた。いたるところにこのように岩が出ているので、このあたりのどこかで採掘されたのだろう。
 諏訪神社の横にこのように露頭している。
 拡大すると
 諏訪神社の石段も青石が使われている。このあたりで取れたものだろう。
 
 さて、本題の佐古川に話をもどそう。江戸時代から佐古川は物流の水路として使われたが、そのためには河川を自然状態のままで放置していてはその用をなさない。江戸時代とはいえ水路とするために大がかりな(ただし何年もかけて)土木工事が行われた。まず、できるだけ水路をまっすぐにする。護岸を青石など使って石垣で固める(崩れぬため)、川底を浚渫して船が通れる深さ、幅にする。 することは現代の河川土木と同じであるが、時代は江戸時代である。ほとんど人力である。道具はぜいぜい鋤やモッコである。
 
 江戸時代にこのように佐古川は水路として利用できるように改修された。現代の佐古小学校あたりまで河口からだいたい直線的に遡れるが、この時代にそのように流れを変えたのであろう。
 
 諏訪神社あたりの佐古川を見ると、このあたりまでは高瀬舟が遡れそうである。
 
 もっと佐古川を遡り、佐古小学校あたりになると、川幅が狭くなり小さい船ならばなんとか遡れそうである。もっとも江戸時代の商家はせいぜい諏訪神社があるあたりまでだったから、このあたりは船が行き来する幅も必要ないのかもしれない。
 
 ここまで来たら佐古川の源流を確かめたくなった。そこでドンドンさかのぼると・・・・・一体どうなると思います???
 蔵本町に入るとますます水路は狭くなり、市街化区域を通り、コンクリで護岸されているため、もはや川というより雨水の排水路か下水路のような感じになってきた。
 
 そして、蔵本の県立中央病院に突き当るあたりで、とうとう暗渠(蓋をされた水路)になり佐古川は姿を消してしまった。ここから地下を流れるためたどることはできなくなってしまった。
 
 ここで源流をたどるという目論見は挫折したといいたいが、しかしそもそも今、佐古川を川として認識して源流をたどることには無理がある。なぜならば市街化された地域の、昔あったであろう河川跡は今は河川というより、雨水の排水路、下水路という機能を持った水路に変質させられているからである。
 雨水の排水路、下水路として機能している水路に昔の川の面影を見て、源流辿りすることなどは無意味であろう。
 
 それでは川だけでなく時間をも遡り、大昔、人為がほとんど加わらない川の流路を大胆推理して、源流をたどるとどういうことになるのであろうか。
 
 ここからはやまさんの大胆推理であります。土木工事などほとんどない中世以前、徳島平野の下流域であるこの地方の川の状態はどのようなものであったのだろうか。(なぜ中世以前としたかというと、実は江戸時代は意外なことにかなり大規模な土木工事を行っており、護岸、川の流れの変更、新しい水路の建設などで自然状態と比べ河川地理が大きく変わっているからです。)
 
 徳島平野も同じでありますが沖積平野の下流の状態は分岐した多くの小河川が複雑に絡みあうデルタ地帯でした。千数百年前、このような沖積平野デルタ地帯を旅した歌日記があります。『伊勢物語』の東下り「八橋の段」です。その中でこのような複雑な河川の状態を「蜘蛛手」(くもで)と呼んでいます。デルタ地帯の分岐する川の様子がまるでクモの手のようだと例えたのでしょう。
 
 その当時の徳島市のあるあたりの川はその「蜘蛛手」のようなかたちであったと思われます。あまり正確ではないと思いますが、私が想像して書いた地図をあげておきます。
 
 今日とは大きく違っています。まず海岸線が今よりずっと内陸にあります。そして吉野川本流はずっと北の方、この地図でははみ出ているあたりを流れ、紀伊水道に注いでいた。
 
 今の吉野川本流の場所には本流よりずっと幅の狭い支流の別宮川が流れていた。
 
 地図の左下から北上する古鮎喰川は眉山の西すそをまわり多くの小河川に分岐して今の徳島市街地を流れていた。下流は湿地帯であり、城山はほとんど島のような状態であった。
 
 今の鮎喰川は不動町で吉野川本流と合流するが、昔は眉山の裾を回り込む形で流れ、直接紀伊水道に流れていた。
 
 鮎喰川から分岐した多くの河川の中で最も流量の多いのは最も南にある眉山の麓に回り込んで流れる川であった。これが古い時代の佐古川である。そしてその川には眉山山系の谷々から流れる谷川の小河川が流れ込んでいた。
 
 この眉山山系の谷川の状態は比較的昔の川の状態を保存している。下は南佐古三番町にある天正寺の谷、このように眉山山系の谷になっている。
 
 
 この谷に入っていくと、谷川が流れている。この谷川が佐古川に流れ込む。
 
 さらに西、蔵本町にある眉山山系の谷、峯薬師のある谷
 
 ここも谷に分け入ると、谷川の水が勢いよく流れている。この流れも強いて言えば源流の一つだ。
 
 結論としていえることは、今の佐古川を川として認識し、源流を探すことは、純然たる川ではないため無意味。ただし過去に遡り、古い佐古川を探ると、源流は古い鮎喰川、もしくは鮎喰川の伏流水。
 
 ただし、今でも佐古川に流れ込む眉山山系の谷川の水は支流とはいえ谷に分け入ればいるほど昔の川の源流の面影を残している。その中でもこの南佐古八番町の眉山の麓にある『狸谷』はもっともよくその雰囲気を残している。
 
 

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