江戸時代の旅は自らの足で歩くのが中心、しかし、どうしても歩かずに行きたいといった場合、大枚の金を払えば駕籠あるいは馬の背に乗ることができた。しかし長距離旅行の場合その旅程すべて駕籠だの馬だの乗る人はほとんどなかった。長距離歩いてよっぽど疲れた場合、せいぜい一つの宿場から次の宿場くらいまでだった。
なぜなら、金がかかることもあるが、決して快適な乗り物ではなかったからだ。庶民は駕籠(竹の枠、座席部分はまさに籠、茣蓙の覆いがあるが普通はむきだし)、身分の高い人は乗物(箱型になっていて屋根・引き戸付き)に乗ったが、これは歩かなくてよいだけましという程度でかなり窮屈で苦しい乗り物だった(幕末に日本に来てこれに乗った外国人は、拷問の道具みたいだと言っている) 体を折り曲げ籠の場合その上エビのように体を曲げ上からぶら下がっている吊革につかまってユッサユッサと大きく揺すられる籠の中で身の平衡を保たねばならなかった。これは馴れない人にはかなり難しく変に身構えしたり揺すられるリズムに逆らって乗っていると、ひどい船酔い状態や腰の激痛につながった。
江戸参府したジーボルトやトゥエンベリもこの乗り物には閉口したようで参府期間中彼らはできるだけ乗馬や歩くことにしている。
ところが江戸~大坂までの道中で非常に快適に旅することができた区間がある。京・伏見~大坂までの間である。なぜ快適かというと、まず歩かなくてよい。といっても拷問道具のような駕籠に乗るわけでもない。それに乗ると揺れずに滑るように動いていく。また横になって寝られるスペースもある。それは何か?
京・伏見~大坂を行き来する淀川を利用した旅客専用の川船『三十石舟』である。先のジーボルトやトゥエンベリもそろってその快適さを述べている。船も設備もきわめてよく、オランダの運河を行き来する旅客川船と比べてもその快適さは優劣つけがたいとジーボルトが書いているくらいだから、相当なものである。これならたとえ現代人がその時代に旅してもこの区間は楽しく快適に旅行できるのだはないだろうか。
この利用はだいたい夜、京・伏見から三十石舟に乗り込み、翌朝大坂の街中にある八軒家浜に着くのが一般的であった。(もちろん昼舟もあるが、寝ているうちに着くなんて当時の人も素晴らしいことだと思っていたんでしょうね。ま、当時のブルートレイン・寝台特急のようなものだったんじゃないでしょうかね)
三十石舟ってどんなものか?今は観光用のそれはあるが、これ、まったくまがい物、史実に基づく船では決してありません。当時の錦絵で見てみましょう。寄ってくる小舟は販売専用の船(くらわんか舟というらしい)、座敷に坐ってるか、寝るかしているうちに移動できるし、売り子はこのように売りに来てくれるし、まったくこんな快適さはない!
京伏見の発着場の史跡はまだ行ったことがありません。近いうちに2000円の南海スキップで行こうと思ってますが、それはともかく、今、ここはどないなっとんかブログ作成のため知りたいと思いました。こんなとき便利なのはググルのストリトビュです。さっそく見てみました。
なんと発着場の近くに寺田屋があるではないか、なるほど発着場に宿屋があるのはあたりまえだわな
その近くにある京橋のネキが江戸時代三十石舟の発着場、このあたりか。
船頭の操る櫂のしずくの音を聞きながら目覚めるとそこは大坂八軒家浜、こちらは先日行って来ましたからその時の写真動画です。
当時の大坂八軒家浜錦絵
説明板
動画
この八軒家浜とは大坂のどのあたりでしょう江戸時代の地図で見てみましょう。(例によって上が東となる)黄色の丸印です、今日の天満橋南詰、大阪城から近い場所です。
京伏見から大坂までの旅はホントに楽ちん、江戸時代でもこんな楽珍な旅ができる区間があったんですね。驚きです。
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