今、鶴屋南北の歌舞伎脚本『解脱衣楓累』(げだつのきぬもみじがさね)を読んでいる。どんな内容かというと四谷怪談のような怪異ものだ。当然祟るのは女で祟られるのは男、男の方は四谷怪談では浪人伊右衛門だったが、こちらは出家・僧侶「空月」。やはり出世のため、女を捨てようとする。女は「お吉」、四谷怪談では曲がりなりにも妻であったが、こちらは妻帯どころか女体に触れることも厳禁されていた僧侶であるからお吉とは秘密の仲である。
男はすでに逃げ腰になっている。そしてここからだが、まったく現代でもありそうな男女の事件となる。別れ話を切り出された女は、逃げようとする男に会う。そして実は懐胎していることを告げる。しかし誠意を見せない男に捨てられることを悟り、絶望した女は短剣を取り出し自害すると逆上する。それを止めようとする男、もみ合いの末誤って女を殺してしまう。慙愧に耐えぬ男はいったんは一緒に死のうとするが命にも出世にも未練のある男はその時に起った激しい雷雨をきっかけに思いかえし、女の首を切り取る。と、切られた首根から無数の美しい蝶が飛び立つ・・・・・・
そこから空月にまといつく怪異がはじまるのだが、今日のブログはその歌舞伎の解説ではない。この僧・空月とお吉の話しは歌舞伎作者の全くの創作ではなくある実際に起こった事件に基づいている。寛延年間というから18世紀の中ごろだが同じ名の僧侶が女犯の罪で女もろとも大坂の千日前で処刑されているのだ。おそらく同じ千日前で死骸あるいは首が晒されたに違いない。南北はその事実を元に脚色して新作歌舞伎にしたのだろう。その千日前の話しである。
前に東京の歴史散歩したブログでも取り上げたと思うが嫌悪施設(といえば今日では火葬場だのゴミ焼却場だの原子力発電所なんかが入るんだろうが)は町の中心部に置かず町はずれ、街道の出入り口付近にあった。この嫌悪施設というのはあくまでもお上(為政者・幕府)から見た話で庶民にとっては嫌悪どころか恋願う?好き好き施設でもあった。それは「悪所」と処刑・晒し場である(死罪の刑も公開で大勢の人が詰めかけなかなかの人気であった)。悪所とは遊郭とか芝居小屋などである。
江戸時代大坂の町の悪所である芝居町と処刑・晒し場は町のはずれや郊外にあった。まず江戸時代の大坂の町屋の地図を見てみよう。この時代の町屋は線引き・境界がはっきりしていた。
地図で見ると右側(この地図では南になる)に道頓堀の掘割が見えるがその右(南)縦長に一町の幅の町で大坂の町は終わっているのである。その最後の町に芝居町が並んでいた。黄色の丸で囲ってあるのがそうである。
この部分を拡大してみる。5つの芝居小屋があるのがわかる。
このように悪所である芝居小屋は町の一番隅に置かれていたがその町も終わりさらに南の方(上の地図でいうと切れているがずっと右には処刑場、晒し場、火葬場、広大な墓地群があった。
下の地図で見てみよう。この地図では南が下になっている。上記の地図の各芝居小屋の位置から町はずれということがわかります。
広がっているのは刑場、墓地、焼き場(当時は燃料は木材、遺骸を焼くのにもコツがいり、火かき棒や大きな団扇を使い骨上げに半日以上かかった)、灰山というのは骨上げの終わった残りの灰を捨てたのが山のようになったところだろうか。
この刑場で歌舞伎のもととなった僧・空月と相手の女が処刑され、さらされたのだろう。
ところでこのあたり一帯を「千日前」という。それはこのあたりはたくさんの墓があり、ある特定の日に大勢の人々が供養に訪れた、その日に一回訪れても千日供養する功徳があるそうであり江戸時代その風習が盛んになった。これを「千日回向」というそうである。そんなことからこのあたりの中心寺院であった法善寺を千日寺と称した。そのためこのあたり一帯を千日前と呼ぶのだそうである。
こんな土地である。怨みを飲んで死んでいった人、この世にまだまだ未練があった人などもし魂魄が存在するなら今でもこの地に残っているのじゃないだろうか。そうでなくても上の地図を見てもわかるように膨大な墓、遺骨の残りが灰山となった場所である。今でも地下には遺骨や灰が何層にも積み重なっているはずである。
ところが今、この土地の上には上方のお笑いの殿堂なんば花月が立っているし、このあたりは大阪でも一二を争う繁華街となっている。世も変われば変わるものだなぁ。
つけたり
南北の解脱衣楓累(げだつのきぬもみじがさね)は文化9年に新作歌舞伎として上演される予定だったがいろいろな事故や故障続きで結局一回も上演されることなく終わった(空月、お吉の祟りという人もいる)。私も幻の歌舞伎として認識していたが、ネットで調べると伝統歌舞伎としてではなく前進座が平成20年に180年ぶりに初めてこの『解脱衣楓累』をやったそうである。下はその時のポスター。
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