2019年5月25日土曜日

江戸の芝居小屋 その1

20150110

 歌舞伎のルーツは出雲のお国(デビュ時は14歳の美少女だったといわれる)といわれている。男ばかりの現代の歌舞伎と違い、そもそもは美少女の歌舞伎だったわけだ。お国中心の一座は十数人の美少女で構成されていたから、今で言ったらAKB48の美少女アイドルのようなものじゃないのか。いつの時代でも日本人は美少女(美少年も)大好きですからね。
 時は江戸幕府草創期、関が原の大戦前後、デビューの中心は(お国は全国を巡業したがもっとも長くとどまり興行した中心地)はご存知のように京都四条の河原だ。

 今でも歌舞伎発祥の地とお国を記念して四条大橋東詰めにお国の記念碑と銅像がある。去年晩秋、京都に行ったとき撮影しました。


 今の四条河原は護岸され水流もまっすぐ一本に流れていますが、当時の鴨川は水流が幾筋にもながれ河原も広く中州もあったと思われる。その河原や中洲に小屋掛けして興行したのが江戸の歌舞伎小屋のルーツである。

 当時の舞台は能舞台の様式が残っているもので屋根もなく観客席も土間に筵を敷いたものだった。
 その後、江戸が日本の政治都市の中心となるにしたがって寛永のはじめころ(1620代)江戸に芝居小屋ができる。日本橋と江戸橋のちょうど中間点で「中橋」といわれるあたり。秋に東京に行ったときにこのあたりを探しました。今、このあたりは東京駅八重洲口の真正面辺り。歌舞伎関係の記念碑は見つかりませんでした。そのかわり、このあたりにこんなものがありました。八重洲口の地名の元となった江戸初期、家康に仕え日本に帰化したオランダ人・ヤンヨースティンのレリーフ。(ヤンヨースから八重洲となった)

 しかし歌舞伎の芝居小屋はやがて10年位して(1630年代)、日本橋近くの芝居町に移されます。ここが江戸時代200年にわたっての芝居の中心地になるわけです。
 まず江戸時代の地図を見てみましょう。赤丸で示してある葺屋町、堺町が芝居町です。
 次に現代のそのあたりの地図を見て見ます。いったい現代のどのあたりが昔の芝居町だったのでしょうか。手がかりは神社です。神社などの場所だけは江戸時代と変わっていないのでそれを見てみると、上の江戸の絵図に(右の赤丸)、橘イナリ、と三光イナリ、とあります。現代の地図にもあります。
  そうすると二つの神社の位置関係からすると江戸の芝居町は地下鉄人形町の駅を降りて少し北西に行ったあたりです。実際に行ってみました。

 人形町の通りです。
 こんな説明版と周辺地図もありました。左の説明で芝居町の位置がわかります。
 この動画で撮影されたあたりが江戸時代芝居小屋があった辺りでしょう。



 そこを歩いていると歌舞伎で有名なこんな場所もありました「世は情け浮名の横櫛」はご存知でしょうか、切られ与三郎とお富の芝居といったほうがいいかな。
 下は当時の芝居小屋の絵図です。芝居小屋といっても江戸時代としては大木造建築物で立派なものですがなぜか芝居の場合は立派な建物でも「小屋」といいます。
 200年以上、この場所にあった芝居小屋ですが江戸末期、天保の改革で芝居小屋は思わぬ災難を受け江戸のはずれに移転させられます。それについてはまた次のブログで。

 つづく
 



0 件のコメント: