2019年5月25日土曜日

江戸の芝居小屋 その2

20150112

 江戸の場所に「悪所」というのがある。今日で言うと「悪・・・」は否定すべきものという意味があるが歴史の中で「悪・・・」は必ずしもそうではない。鎌倉末に「悪党」という武士の新興勢力が出てくるが凶悪な犯罪者集団ではない。鎌倉幕府に統制されない武士で幕府の言うことを聞かない武士はこう呼ばれた。同じように江戸の「悪所」は否定すべきものではなく、忌避するべきものでもなかった。それどころか幕府は公認していた。
 その悪所の筆頭は「吉原」(幕府公認の遊郭)であり、次には「芝居町」であった。幕府は必要なものとしてそれらを認めたが、常に好ましからざるものとして統制下においた。そのため公認の場所以外でのこれらの行為は禁止されていた。幕府はこれらの場所から華美な風俗が流行し、秩序を乱すのを恐れていたのである。そのため幕政で改革や引き締めが叫ばれるたびにこれらの場所が真っ先に槍玉に上げられた。
 そのような場所であるので江戸の中においてまず囲い込まれた。そしてできるだけ江戸の中心から周辺へ移されていくのである。江戸時代の初め吉原は日本橋にも近い「元吉原」という江戸の中心地にあったがここは早々と浅草郊外へ移され新吉原(単に吉原という)が誕生する。江戸時代を通じて明治までここにありつづけた。
 江戸時代の絵地図を見てみましょう。浅草寺の裏、赤丸で囲ってあるのが吉原です。周りは田圃がひろがり当時は全くの江戸の町はずれというのがわかります。
 中心地から遠いので通う男たちは大変だろうと思いますが、遠いといっても江戸のはずれ、快楽を求めて行く男たちの苦になるものではありません。江戸の中心地に住んでいて金もたっぷりある男であれば歩いてゆかずとも吉原の門近くまで行けました。江戸は掘割、大川(隅田川)、運河が発達しています。日本橋あたりからだと舟に乗り隅田川まで出ると地図のこの堀割から遡って吉原へ行けました。同じ地図上の赤矢印にそって掘割がありますね。これを船で遡るわけです。この堀割は「山谷掘」と呼ばれました。
 去年の秋にこの場所に行ってきましたのでご覧ください。まず今の地図をご覧ください。山谷堀跡は埋め立てられて細長い公園になっています。赤矢印から赤丸に向かって走っている細長い緑地が「山谷掘り公園です。そして赤丸が吉原の跡地です。
 今のこのあたりの様子は動画にとってあるのでご覧ください。

  さてこのように悪所の一つである吉原は早々と江戸の中心街から郊外へ移されてしまいますが、もう一つの悪所である芝居町は天保時代(1840年頃)まで日本橋の繁華街に、何度もの幕府の改革(享保、寛政など)という弾圧から持ちこたえ、ここに置かれ続けましたがとうとう天保の改革により1842年に(明治維新まで残すところ25年)、江戸郊外、やはり浅草寺裏に移転させられました。
 当時の絵地図を見てみます。赤丸で囲った町が新しい芝居町です。吉原よりはちょっとだけ浅草寺やその付随する寺町に近いのがせめてもの慰めでしょうか。
 現代のこのあたりにも行ってきましたので写真をご覧ください。
 今は小店舗住宅地の閑静な場所で昔の面影はありません。人通りもご覧のようにほとんどありませんが江戸時代は芝居小屋、芝居茶屋が立ち並ぶ大歓楽街でした。
 左にちょろっと見えている説明板を読んでみるとこの地域が天保時代に移転した芝居茶屋であることが書かれています。

 この通りを歩くと個々の芝居小屋の跡地である場所が写真のように掲示されていました。
 まずは中村座跡地
 下は市村座の跡、
 森田座の跡もあるはずですがその表示物が見つけられませんでした。そのかわりうろうろ歩いていたら浅草寺の近くにこんな場所がありました。
 読みにくいかもしれませんが「花川戸公園」。このあたりの地名です。どこかで聞いたような・・・
 花川戸!花川戸!花川戸???
 おお!花川戸といえば助六、そこでこの公園に入って見てみるとこんな碑がありました。

 浅草寺の近くの花川戸は、近くに芝居町や吉原があるため侠客がいて、粋だの男伊達を重んじる風潮があったのでしょう。花川戸といえば助六が思い出されれるように江戸のイイ男がすんでいたというイメージがあります。

 浅草猿若町に移転後の芝居町の浮世絵が下の図です。芝居が終わり(当時の芝居は日暮れると終わる)、次に芝居小屋の横に立ち並んでいる芝居茶屋に賑やかさの舞台は移ります。芝居茶屋のさんざめきは夜遅くまで続きます。月も高く上がっています。

 次回はいよいよ江戸時代の芝居小屋の中に入って見てみましょう。

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