2019年5月25日土曜日

死臭

20141211

 現代人に「死臭」といってもほとんどイメージしにくいのではないでしょうか。死のにおいは?と聞くと今は多くの人が抹香臭さを上げる人が多い。あるいは死後遺体を病院で拭いたため消毒臭っぽい臭いを思い浮かべる人がいるかもしれない。
 
 しかし、中世人や江戸時代人に聞くとそうではない。中世の京都の鴨の河原や鳥辺野あたりに野ざらしに晒されている遺骸から立ち上る「死臭」は強烈な「腐臭」である。今でも夏の野原を歩いていて犬猫の死体から立ち上る腐臭を嗅いだことがあるかもしれない。ヒトの死骸から立ち上る死臭も確かに同系統の肉の腐った匂いであるがそんな生易しい臭いではない。嗅いだ人に話しを聞くと鼻から突きぬけ脳を鈎爪でかき回され、反吐のかわりに内臓が引きずりだされるような恐ろしい臭いであるという。
 
 またそのような腐臭が立ち上る場所では同時にそこここの野天で火葬もされたから遺骸を焼く臭いも加わっている。ヒトを焼く臭いも広義の「死臭」ということができた。江戸時代になるとさすが野原や河原に取り捨ての遺体はほとんどなくなる(しかし刑場では処刑人の遺骸は腐るにまかせた)土葬にすれば通夜・葬式も含め数日余りで土に埋めるし、棺桶で覆ってもいるので腐臭系の死臭は少なくなる。それとは逆に火葬から立ち上る臭いを嗅ぐ機会は多くなる。
 
 ちょっと誤解があるようであるが、江戸時代はほとんどの人々が土葬じゃないかと思われているがそうではない。土葬もあれば火葬もある。地方による慣習もあるが本人・家族の選択もある。
 
 調査によると江戸時代の大坂では約9割近くは火葬であった。大坂には何か所かの寺に三昧堂と呼ばれる火葬場が設けられていてそこで多くの遺骸を荼毘(火葬)にした。下は道頓堀(千日三昧)の絵図である。左上の大きな建物で「荼毘所」と書かれている建物が火葬場である。大きなお堂のように見えるがおそらく中は素焼き瓦で作られた火炉(焼き場)があったと思われる。
 
 ここは大規模な荼毘所で多くの毎日多くの遺体が火葬されたものと思われます。しかし建物を見るとホントにこれ、火葬場かと疑われますよね。まず煙突がありませんよね。煙突のない火葬場なんて効率よく焼けるのかと思ってしまいますが、次の火葬場の絵図を見てください(大坂の飛田) 火葬場ですが、煙突はなく、横の格子から盛んに煙が上がっているのが見えますね。格子も大きく開いていて煙を逃がすようにできています。
 しかし、このような構造ですから煙は建物のまわりにまといつきなかなか拡散しません。だから死骸を焼く臭いはこのあたりに立ちこめたでしょうね。何の鳥かわかりませんが屋根の上にとまっていますね。魚を焼く臭いと間違えて鳥が寄ってきたのかもしれません。なんか不気味ですね。
 
 江戸時代の大坂人は死臭=腐臭ではなく、死臭=人を焼く臭い、のイメージが強いでしょうね。髪の毛を焼いた臭いは非常に嫌なにおいですね。その数百倍もの強烈な臭いが三昧堂、墓所、寺に立ちこめていました。
 
 ついでにこの建物の中の様子を見てみましょう。上手に遺骸を焼く世話人を三昧僧とか隠亡とか呼ばれています。その人がそばで大きな団扇を持っています。定量の薪でうまく焼いて骨あげをしなけれならないので団扇で炎を調節します。またちょっと絵図ではさすがに気持ち悪くて示せませんが、火かき棒のようなもので半焼けの遺骸の腹をブスブス突き刺して水分を排出させたり、遺骸を動かしたりして燃えやすくしました。
 だからもちろん遺族にはそんなところを見せられないので、火入れがすむと遺族は骨あげまでそこを立ち去りました(薪だからかなり長時間かかる)
 
 そして下図は家族が骨を集めているところです。今は性能の良い重油バーナーで充分焼くため臭いも煙もなく、後にはほとんど真っ白な灰と白骨しか残りません。しかしこの時代の焼き場はそうではありません。図をよく見ると何やらまだ形が残っています。そして臭いもあります。黒い焦げた肉もまとわりついた骨を拾わねばなりません。しっかりと死の臭いを嗅ぐことができました。
 
 今は死の臭いのイメージは、抹香臭や消毒臭になりました。死と纏わりついたらこのような臭いも嫌ですが、気を狂わすような強烈な腐臭やヒトを焼く臭いよりまだましなのではないでしょうか。

0 件のコメント: