16世紀以降始まった欧州人のいわゆる『地理上の発見』は欧州人の知見を大いに広げることになりました。まあ、それはいいんだけれど、その動機、意図、そして発見がもたらした後の彼らの態度や行動に対しワイら(東アジアの私らだけでなく、アメリカネイティブ、アフリカ、太平洋諸島人も含め)は不快を通り越して怒りを覚えています。
そもそも「地理上の発見」という言葉からして気に入らん。発見でっせ!西インド諸島の発見だの、ジパングの発見を求めて航海だのって、ワイらは奴ら(欧州人)に発見されニャあかん存在か?ずいぶん失礼な物言いである。まあ、それはなんとか我慢するにしても、奴らこうぬかしよった。
「誰も発見していない無主地を発見したら第一発見者の所有に帰する」
そういって欧州人の知らんところいって探検したら、その場所は欧州人(発見した国)のものであると領有を宣言するようになった。無主地って、おいおい!そこには土着民がいるのだがそんなのはお構いなし、というか欧州人でもないしクリスト教徒でもない現地人を人間とも思うてない!
オロシャ(露西亜)もそのような欧州の流儀を見習ってシベリアをドンドン探検し国土に組み入れ領有するようになった。動機は拡張欲もあろうが高価な毛皮を求めての方が大きい。しかしユーラシアを東へと進出して行けば当然、強大な清帝国とぶつかる。アムル川流域、河口付近は優良毛皮獣の宝庫であるが隆盛期にある大清帝国を敵に回すほどまだオロシャは大きくない。で、前に話したネルティンスク協約を結び、清朝の勢力範囲であるアムル川沿岸や河口域には進出しないようにした。
上の地図の赤が一応国境ということになります。アムル川河口付近にロシアの勢力が及ばないということはその対岸にある樺太もかなり遅くまで(19世紀の中ごろ)ロシア勢力が浸透しないことになります、だからリンちゃんの探検の時、この地方は(樺太と対岸の大陸部分)にはロシアの勢力はほとんどありません。
この地方への浸透を阻まれたロシアは東へと向かい18世紀にはアメリカ大陸へと進出していきます。18世紀の最後の年『露米会社』を作ります、これは毛皮獣の獲得販売、植民活動の国策会社です。そしてますます国土の膨張と植民地経営を強力に進めます。樺太方面からのロシアの進出は当面ありませんが、カムチャッカ半島から毛皮の貢納(一方的に土着民に課す)を求めて千島列島を飛び石を伝うように南下して来ます。そうすると日本の勢力とぶつかるではありませんか!
ロシアにしてみたらもちろん自分の勢力範囲を千島列島のずっと南部まで広げればいいのでしょうが、それよりもロシアはこの新しい植民地、オホーツク沿岸、カムチャッカ半島、そしてアラスカを含めたアメリカ大陸西岸への物資補給を欲していました。ロシア本国からはあまりにも遠いこの地方では植民活動に要する物資すべてが不足でした。極寒で土着民もまばらなこの地方での現地調達もできません。
そこでロシアが日本に求めたのは貿易でした。18世紀後半になってくると千島を南下して来たロシアはそのような意図をもって日本と接触してきます。非公式に1777年にシベリア商人レベデフ・ラストチキンがナタリア号隊長シャバ リンを派遣し、1778年ノッカマップ(根室半島北端)に来航します。この時はうまくいかなかったようで翌年再びアッケシ(厚岸)筑紫恋に来航。9月に交渉しますが結局、松前藩は鎖国を理由に断ります。
このことも含め、この時代(18世紀後半)、ロシアの南下は日本の警戒心をかきたて日本側にも北方領域の探検や警備に関心が高まってきます。
そんな中、ロシアの通商を求める公式の使節が根室にやってきます。使節はラクスマン、1792年(寛政4年)のことです。
公式使節であることを受け、対応は幕府が担当することになり翌年の1793 年1月に幕府役人が、5月10日に幕府役人と松前藩役人が根室に到着しまし たが交渉は松前で行うことになりました。この時ラクスマンに連れられた漂着民の大黒屋光大夫が帰国しています。
交渉の結果は?
私から見ると妙なものでした。通商拒否でもなく、受け入れでもない、保留ともいうべきものでしょうか。幕府は次のように回答しました、
『このような通商交渉は、長崎以外のいかなる場所でもすることはできない。交渉ごとは長崎へ回航されたい。そのためには長崎の入港許可証を発行する。』
保留ですよね。なぜ幕府の代表団が来ているのにこんなことになったのでしょうか。おそらく訓令では通商受入れどころか拒否の回答もできる権限は与えられていなかったと思われます。交渉団に与えられた権限は、日本の貿易に対する態度(いわゆる鎖国)をロシア側に説明し、穏便に帰ってもらえ、どうしても納得しないなら、以後は長崎で交渉することにし、長崎入港許可証は与えてもよい。というのが限度じゃないでしょうか。
幕府の回答は時間稼ぎか?その間に江戸の幕閣でじっくり考える。ということは拒否もあり得るけど通商の承認もあり得るわけである。時間をかけても幕府にそのような決断ができたのか?
幕閣には何としても拒否しなければならないという考えもあるけど、一方には蝦夷地は長崎よりも遠い日本の辺境である。そんな蝦夷地の片隅でロシア一国と一か所くらい通商を開いても幕府の体制にはそう響くものではないから容認してもよい、という考えもありました。
ラクスマンは8月6日に松前を出発し、8月22日に函館から帰国しました。この年は無理としてもその翌年くらいに長崎入港許可書をもって再び長崎にやって来て交渉を再開したら通商がオランダのように認められる可能性もありましたが、二度目のロシア使節が長崎にやってきたのは12年もたった後で別人でした。幕閣の構成もすっかり変わり、もしかしたらあったかもしれない通商を認めてもよいという一昔まえの雰囲気はなくなっていました。
(左図は日本人の描いたラクスマン図)
※ずいぶんと長いキセルですね、ラクスマンは白面で女顔に描かれていますから、なんだか時代劇で山田五十鈴演じる大奥のお局さまとか花魁のようです。
次回は幕府の通商拒否にブチ切れたロシアの話しです。
つづく
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