通商交渉事は長崎でしませう、ということでラクスマンはんが長崎港入港許可書をもらったのが1792年(寛政4年)です。この時の幕閣の首班は日本史で皆さんよ~しっとるあの松平定信はんでした。ま、これは憶測ですがすぐに長崎へ行き、交渉を始めていればもしかしたら蝦夷地のどこか一カ所か二カ所くらいで通商が許可された可能性もありました。
ところがその後12年間もロシャは長崎にやって来ません。できればオロシャと関わりたくない幕府は安心したようで、「あきらめたかな」 とでも思ったんでしょう。しかし、海防の必要は大いに感じていました。蝦夷地のみならず本土でさえ異国船が頻繁に接近したり、時として一時上陸したりもしました。各藩に海防の指令を出し、沿岸警備の施策を行いました。それとともに蝦夷地を任すには頼りない松前藩からまず東半分の蝦夷地を上知させ(1799年)幕府直轄としました。それが18世紀が終わる直前の日本の情勢でした。
そしてラクスマンはんが去って12年もたち、みんなすっかり忘れた頃、1804年(文化元年)9月、突然、長崎に12年前の入港許可書をもって皇帝特使として通商交渉のためレザノフがやってきました。幕府が与えた入港許可書も持ち、皇帝の特使として来たレザノフを無下に追い返すわけにもいかず。おそらくはしぶしぶという態度で長崎で交渉が始まります。レザノフはそれから半年も長崎で滞在することになります(といっても初めは船内の滞在、後に長崎の町のはずれに接待所のようなところが設けられるが極めて不自由でレザノフは大いに不満であった。左の図がレザノフ、ロシアの肖像と日本人の見たレザノフの錦絵)
下はロシア皇帝の国書を奉呈するための儀式、ロシア艦から艀に乗り換え、大波止に上陸し、これはたぶん西役所(長崎奉行所の港に近い役所)に向かっていくところ
幕閣の方針は早くから通商拒否と決まっていたものと思われます。ただし強硬に拒否するのはさけ、何とか穏便に、できれば幕府のいわゆる鎖国政策を(といっても中国、朝鮮、琉球、阿蘭陀は貿易している)説明し、納得してもらって、お引き取り願うようにするのが上策と思っていました。しかしロシア側にも通商を開きたい強い動機と意欲があるわけですから、170年も前から変わらない幕府の海外政策を説明しても、ハイ、よ~わかりました、と納得するわけがありません。
レザノフの長崎滞在は長引きます。昔の日本人の美徳かもしれませんが、穏便に拒否する場合、往々にして婉曲に拒絶の態度を直接的な口頭でなく示す場合があります。確定的な返事をせず、酢だのコンニャクだのと言を左右にして引き延ばす。日本人同士だと、「あ、こっりゃ、あかんわ、」となるのでしょうがロシャ人には通用しませんわな。
レザノフからしたら、さんざん待たされ、じらされたあげく、最後はノーかよ!と憤激しますわな。憤懣やるかたなく長崎を出航します。彼は冷静な紳士なんですけれども、「日本の固い扉を開けるためには、若干の武力行使もやむを得ないな」という考えが出てきます。ま、当時の植民政策をになう人は個人的には紳士といえどもそんなもんですわ。日本への武力行使は当然、皇帝の許可を得て、命令されなければならないものだけれども、レザノフはそのような手続きを経ることなくカムチャッカで個人的に部下であるフヴォストフに限定的な武力行使を示唆しました。
フヴォストフは1806年(文化3年)9月、樺太・クシュンコタンに上陸し、運上屋など和人施設を攻撃し番人ら4人を捕えます。さらに翌年文化4年4月には択捉が攻撃される。択捉のシャナには幕府役人や警護の東北諸藩の兵士が350人いたがロシア兵20数名が上陸してくるとほとんど戦わず逃げ出してしまいます。この時にこの場所で徹底抗戦を主張したのが我がリンちゃんこと間宮林蔵です。しかし上官が撤退を命じ、しぶしぶ従っています。
この年(文化4年3月)から全蝦夷地(樺太、国後、択捉も含め)は幕府領となっていますが知らせの届いた幕府は驚愕します。
ロシアの十数倍の兵力がいたのに戦わず撤退って、ちょっと情けない気がしますが、彼我の戦力の差はそんなに大きかったんでしょうか。もしそうだとするとロシャの出方によっては、ペリー来航以上の衝撃を受け、50年も早く、力ずくで開港されるということもやむを得なくなります。どうなるのでしょうか。次回ブログではそのことについて考えてみます。
つづく
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