ジーボルトは文政9年(西暦1826年)6月12日(当時の日本は太陰暦で日本の暦では5月7日)、道頓堀角座で歌舞伎を観劇する。
江戸時代の日本は海外との交流が厳しく制限されていた。この大坂で異国人が見られるというのは朝鮮とオランダのわずか二か国であった。そして娯楽の為、日本の歌舞伎を観劇したのはオランダ使節のみである。
オランダ使節江戸参府は堅苦しい旅であり、またジーボルトは秘められた目的(日本に対する学術総合調査)もあり、旅は緊張するものであっただろうが、帰りの大坂では神社仏閣の参観、商店街の買い物、街並みのそぞろ歩き、などでくつろいでいる。その中でも観劇などはジーボルトにとって非常に興味深いものであった。日記にかなりの分量を割いてその印象を描いている。
ジーボルトらオランダ人も歌舞伎の舞台を見られて面白かっただろうが、実は彼らもそこで演じられている舞台の俳優以上に見られる存在でもあった。そりゃそうだろう、江戸時代の日本人にとって紅毛碧眼のオランダ人を見られるなんてものは江戸・両国や道頓堀の見世物小屋でラクダや象を見るのと同じくらい珍しい見世物であった。
芝居小屋でジーボルト一行は貴賓客にもかかわらず二階の桟敷席ではなく平土間(一階の並み席)に案内されている。なぜか?ジーボルトは気づかなかったかもしれないがこれは彼らを日本の観客が見るのに最も良い位置であるからであろう。人々は芝居そっちのけで彼らに好奇の視線を注いだのである。だからオランダ人の観劇は絵図にして出版されたりしている。下はジーボルトの歌舞伎観劇ではないが以前オランダ人が道頓堀で操り芝居(人形芝居)を見たときの絵図である。土間見学だが西洋人なので椅子を用意している。3人の和蘭人が観劇している。
江戸時代の角座の錦絵、手前の橋は太左衛門橋、今も道頓堀には同じ名前の橋がある。
外題は『妹背山婦女庭訓』(いもせやまおんなていきん)、近松半次作で文政9年皐月狂言角座の芝居では、尾上菊五郎、市川団蔵、尾上松助、嵐来芝、大谷友右衛門、中村芝翫の一座である。
この歌舞伎は今でも上演されて見ることができる。下は最近の『妹背山婦女庭訓』
ジーボルトは詳細に印象やこの劇の内容を日記に書いている。それによると舞台の大きさや劇場の規模はヨーロッパと違わないこと、平土間、桟敷、二階席などもヨーロッパとよく似ているがずっと装飾が少なく簡略であるとしている(石造りと木造の違いか)。演じる役者も上手であり、楽器演奏者も芸術性が高いと見ている。ただし、女性をすべて男優がやる(歌舞伎では常識だが)ことに違和感を持っている。
下は劇場の入り口付近、ジーボルトは大きな立て看板が特徴的だといっているが、こんなような立て看板だったのだろう。
また舞台装置で、ヨーロッパのように移動壁はないがそのかわり回り舞台があり、劇の転換がすばやくできることに感心している。
下の動画は最近の道頓堀、ジーボルトが見た角座の跡に今もその名前を冠した演芸館が残っている。
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