2019年5月24日金曜日

徳川家の菩提寺

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 室町時代、徳川家がまだ三河の土豪、松平氏であったころからの徳川家本来の宗旨は『浄土宗』であった。家康が戦いに望むにあたって「欣求浄土・厭離穢土」の旗を掲げたことはよく知れれているがこの言葉は浄土宗で使われる言葉であることからも三河松平家の宗旨が浄土宗であったことがわかる。日本の仏教は葬式仏教であるといわれているが徳川家においても三河以来、本来の葬儀は浄土宗で行われ、その寺が菩提寺となった。
 ところが徳川氏が天下を取ると本旨は浄土宗のみであるということがいえなくなってくる。今、徳川15代将軍の墓(霊廟)を調べてみると本来の旦那寺である浄土宗だけで菩提を弔っているのではないことがわかる。浄土宗の「江戸・芝・増上寺」と天台宗の「上野寛永寺」の二つに分かれている。第2、6、7、9、12、14代のそれぞれの将軍は増上寺(浄土宗系)、それ以外の将軍は天台系の寛永寺か日光輪王寺(やはり天台系)に墓がある。浄土宗と天台宗に別れてしまっているこれはどうしたことであろう。
 浄土宗と天台宗はそもそも同列にわけられるべき仏教宗派ではない。簡単に言うと天台宗のほうがはるかに格が高い。御存じのように浄土宗は鎌倉時代、法然によって開かれたが法然は天台宗の総本山ともいうべき比叡山で天台系の仏教の研究と修行をした僧侶である。天台の本山比叡山延暦寺は当時の仏教の大学ともいう位置づけであり、仏教の大本である。これは平安初期、朝廷が仏教を鎮護国家の礎にした時以来のことである。朝廷にすれば天台宗は国教扱い、延暦寺は日本の寺院の総本山ともいうべきものであった。
 仏教を全体を大きな木に例えるとするならば天台宗はその根と太い幹部分であり、浄土宗などは後世その幹部分から派生してきた枝葉の部分である。とまあ、これは朝廷側や天台から見た見方でもあるが、そこまでの従属関係はないと考える当時の多くの仏教者にとっても天台と浄土宗は同列のものではなく、やはり天台宗のほうが格上であるという認識はあったであろう。
 一体何をもって格上というのか、それは浄土宗では絶対できない働きを天台宗は持っていたのである。上でも述べたようにそれは国家自体の安寧と平安を祈ることが公にに認められていることである。国家鎮護と天台宗は切っても切り離せないものなのである。これがあるため天台宗は準国教扱いされるのである。天台宗のトップは「天台座主」というが、あらゆる僧侶の階層の中でも当然トップであり、中世以降天台座主は摂関家か皇族が就任することになる。
 1603年、家康は幕府を開き天下の設計図を描いて行ったとき、宗教分野の新たな再編も考えられていった。そのブレーンとなったのは金地院崇伝と天海僧正である。その中で古代国家の伝統を引き継ぐ朝廷の鎮護国家の考えを幕府にも取り入れて行った。しかし、徳川家の宗旨でもある浄土宗にはその機能はない、無理にそれを持たせるのは得策ではなく、むしろ新たな天台系の大寺院を幕府の膝元江戸に作ることを選んだ。そうしてできたのが東の比叡山として江戸・上野に作られた東叡山・寛永寺である。門主は皇族が迎えられた。
 そのようないきさつもあり、本来の旦那寺である浄土系の増上寺にも歴代将軍の半分くらいは墓も作るが新たな上野の寛永寺にもやはり残りの半数くらいの歴代将軍の墓をつくることになったのである。
 寛永寺については以前のブログでご紹介しましたが今回、11月3日にはもう一つの徳川家の菩提寺・増上寺に行ってきました。ご覧ください。
 江戸時代より境内はうんと縮小しているが、地下鉄の駅を降りるとすぐに二天門が見えてくる。昔はこのあたり一帯増上寺境内だったが今は店やホテルが立ち並んでいる。

 
 下が増上寺山門

 下が本堂、すぐ近くに東京タワーがある。

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