世の中は「色即是空」。「諸行無常」。あんまり深い意味は知らんが要するにカタチあるもので永遠に続くものはないということか。これはお寺におまつりしてある御本尊様にも言えることである。たとえどんなにありがたい仏様でも古びもするし、風化もする。災害にあったり、戦火に巻き込まれればその時点で亡くなってしまう。たとえそんな危機にあわず安置され続けても劫ほど時間がたてば微塵になって消えてしまう。
聖武天皇が作られた大仏の開眼は752年(天平勝宝4)、ところが源平の争乱に巻き込まれ400年余りで大仏・大仏殿は消失してしまう。それでは豊臣秀吉によって作られた京の大仏はどうであったか?連綿と続く天皇家が作ったものさえ400年で戦渦に巻き込まれ消失の憂き目を見たのである。二代で滅びた豊臣家が作ったこの大仏、とても長続きしたようには思えませんがどうでしょう。
まず開眼前に大地震でブッ潰れました。長距離を走りだす前にスタート地点で倒れたようなもの。その後、二代目の秀頼が金銅製の大仏・大仏殿を建てますが(1612年)ご存じのように豊臣家はその3年後に滅びてしまいます。徳川の天下になりますが豊臣ゆかりの大仏とはいえさすがに仏さんを壊すことはしません。そのまま京の大仏として存在しますが50年ほどたって地震で大仏殿が多少壊れます。それを待ってましたとばかり、銅製(金メッキ)の大仏を木製にしてしまいます。銅の仏さんは鋳潰して銭(寛永通宝)にしてしまいました。古い銅製の大仏と新しい木造の大仏の大きさは同じですが新しいのは木製。古いのはすべて銭になったのですからその差額で徳川さんはずいぶん儲けたでしょうね。
この木製の大仏(大仏殿とともに)が以後150年くらい京の大仏として存在します。木製とはいえ巨大さは変わりありません。奈良の大仏を凌ぐものとして大勢の人が参拝に訪れます。江戸時代の「京都名所図会」にその威容が描かれています。
上の図絵で描かれている京の大仏は「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎 一九も見ております。それをもとに書いた東海道中膝栗毛の中で弥次喜多にこのように言わせています。
「大仏殿方広寺、盧舎那仏の坐像。御丈六丈三尺(約19メートル)、堂は西向きにして東西廿七間、南北は四十五間あり。手のひらには畳が八畳ひけるそうな。鼻の穴からは人が唐傘をさして出入りできるそうな。」
そして大仏殿の柱に穴が開いていて参詣の人々がくぐり抜けているのを見て弥次さん喜多さんも同じようにくぐり抜けます(弥次さんは上手く抜けられず大騒動になりますが)
左がその東海道中膝栗毛の大仏殿の柱の穴の挿絵です。
この大仏は青い目の外国人も見ています。鎖国時代ではありましたが阿蘭陀商館員と朝鮮通信使はここ京都にもやってきました。そして記録も残しています。阿蘭陀商館付き医官であるチェンベリです。ほとんど観光目的でこの大仏を見学しています。よくまあ、この時代、阿蘭陀人が京都観光をできたものだと思いますが、江戸参府帰りの道中では京や大坂の観光見学も許されていました。チェンベリも
「幕府からの帰路は往路に比べどこもずっと自由であった。そこで都を立つ前、いくつかの有力な寺院を見学する許可が出た」
といっています。そして京の大仏殿(方広寺)はこのように記録しています。
「この寺院は96本の柱で建てられていて、いくつかの入り口があり、入り口は非常に高いが狭い。建物は二階建てのようになっており、各階は互いに入り組んでいるので屋根が二重になっている。上階は周囲が1.8m以上もある何本かの色塗りの柱で支えられている。床には四角の大理石が敷きつめられている。そのような床を私はこれまで他で見たことがなかった。
ただ一つ欠けていたのは、こんなにも大きくて立派な建物でありながらそれにふさわしい充分な採光を取り入れていないことであった。もっと正しい建築術に従うべきであったろう。
大仏像はその寺のほぼ中央にあり、見るものに驚愕と崇敬の念を与える。像は一間くらいの高さにインド式に足を交差させて坐っており金色に塗られていた。その耳は長く髪の毛はちぢれ肩をあらわにし身体にはベールをまとい右手を高く上げ、そして左手は腹の端に置いていた。
見たものでなければこの像の巨大さはつかみ難いであろう。通詞は私に掌の平たい部分には六人の男が日本式に正座してゆっくり座れると断言した。」
掌の大きさを弥次喜多もチェンベリも同じように書いています。滑稽本の中のキャラである弥次喜多は手のひら・畳八畳と書いていますがいくらなんでもこれは大げさすぎです。チェンベリの記述が(男6人が坐れる)正しいでしょう。
チェンベリは大仏殿の中が暗いと不平顔ですが日本の本堂の中はどこともこのようなもの、チェンベリは窓が大きくステンドグラスなどもある欧州の大聖堂が思い浮かんだんでしょうね。
弥次さん喜多さんのような江戸のミーハーも見た、そして数少ない青い目の外国人も見たこの大仏殿、江戸時代の京都のもっとも有名な観光名所(信仰の対象)だったのです。しかし残念なことに19世紀に入るちょっと前(寛政十年)に火災で焼けてしまいます。(50年後、胸から上のみの大仏様と大仏殿が建てられますが、以前のような大きさはなく、ド貧ちょこまいものでしたから、名にふさわしい大仏・大仏殿はこの寛政十年をもって終わったとみていいでしょう。その小さな大仏も昭和48年に焼失してその後方広寺の大仏はありません。)
今その敷地には、豊国神社と哀れなくらい規模の縮小した方広寺があります。完全に消え去った大仏・大仏殿ですが何か残っていないか、神社の人に聞くと、石垣が残っているそうです。名所図会のこの部分ですね。
この石垣は初代大仏殿の基礎のため秀吉はんが運ばせたものです。だからか大阪城の石垣と石質と大きさが同じに見えました。
この大仏殿を見た阿蘭陀人は冷静な目で観察していますが、江戸時代京都観光ができたもう一国の外国人朝鮮通信使節にも寺社観光などして、くつろいでもらおうと幕府は大仏殿を勧めます。しかし朝鮮人は秀吉ゆかりの大仏殿ということでこの寺社見学は断固拒否という。幕府は「まあまあそうおっしゃらずにここを見学し、お茶など飲んで御一服を」と、なぜか強く勧める(ほっときゃええのに)。そこで一悶着。どうなることやら。そのことについては次回ブログで。
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